スルガ銀行 Dバンク支店

SURUGA d-labo. Bring your dream to reality. Draw my dream.

イベントレポート

イベントレポートTOP

2012年10月11日(木) 19:00~21:00

鶴間 和幸(つるま かずゆき) / 学習院大学 文学部 教授

宇宙と地下からのメッセージ ~秦始皇帝陵の謎~

今から2200年前に中国を最初に統一した始皇帝。その始皇帝が眠る陵墓の地下宮殿には、宇宙が描かれ、水銀を流して地上の黄河や長江、そして海が再現されていると伝えられている。鶴間氏率いる研究グループは、この地下宮殿の謎を解明するために、宇宙から撮影した衛星画像を分析するプロジェクトを進めてきた。その結果、北極星を中心として回転する古代中国の星宿の世界が、地上の都の咸陽や始皇帝陵の建設プランにも投影されているなど驚くべき事実が。古代中国を追い続ける研究者の最新の研究成果を聞きながら、遠い2200年前に想いを馳せてみてはいかがだろう。

宇宙と密接につながっていた古代中国の人々

2200年前、中国初の統一国家を築いた秦の始皇帝。学習院大学の鶴間和幸氏は歴史学者としてその陵墓である始皇帝陵の調査研究に長年携わってきた。一般に向けても『世界四大文明の中国文明展』、『大兵馬俑展』、『始皇帝と彩色兵俑展』などの展覧会、民放やNHKの古代中国を特集した番組などを監修してきたこの分野の第一人者だけに、セミナー会場には多数の歴史ファンが詰めかけた。「秦始皇帝陵の謎」に迫る講義のタイトルは『宇宙と地下からのメッセージ』。西安郊外にある始皇帝陵が地下に存在することは広く知れ渡っているが、今回のセミナーでは秦という国の国家プランが「宇宙」にもつながっていることが紹介される。はたして古代国家がどういった形で宇宙と関連しているのか。鶴間氏のお話は、まず「2200年前の古代中国では人々が常に天を見あげて星空を見ていました」という話から始まった。

古代の生活を想像してみたい。現在よりもはるかに照明が少なく、都市部であっても空には満天の星々が煌めいていた。この頃の中国では1年の始まりは陰暦の10月(陽暦では11月)。冬の星空には天の川(天漢)が流れ、こぐま座の一部をなす北極星が輝いていた。人々は東西南北の四方にそれぞれ七つの星座を見出し、「二十八宿」の星座をつくった。ちなみに「宇宙」という言葉や「銀河」「惑星」「恒星」「彗星」といった天文用語は大半が古代中国からきたものだ。いかに人々が宇宙に関心があったか、この一事からもよくわかる。

こうした言葉のひとつに「天帝」というものがある。天帝とはすなわち北極星のこと。天の中心にあるこの星はあらゆる力の源とされた。始皇帝が「王」から中国初の「皇帝」へと称号を変えたのは、この「天帝」にあやかったにほかならない。

遺跡が教えてくれる秦始皇帝の素顔

始皇帝(前259~210年)は13歳で王位に即位し、26年後に皇帝、そしてその12年後に亡くなった。なにしろ広大な中国大陸を史上初めて統一した人物である。エピソードには事欠かない。司馬遷の史記をはじめ、現代に至るまで始皇帝を描いた記録や物語は無数にある。が、それらはすべて後世になって記されたものだ。鶴間氏は「始皇帝がどんな帝王であったかを読み解くには、後世の脚色、虚構を排除していく必要がある」と話す。始皇帝が中国統一事業に乗り出したとき、この大陸には7つの国が存在した。そのなかで始皇帝が王として即位した秦はいちばん西方にあった。ほかの中華世界の国々から見れば夷である。その夷狄が戦争によって他国を従えひとつの国にまとめあげた。「統一」というと聞こえはいいが、実態は「征服」である。しかも始皇帝は自ら軍を率いて遠征していた。こうしたイメージから多くの文書や絵図が始皇帝を「暴君」として描いている。だが、例えば明の時代に描かれた絵図を見ると、そこには大きな間違いがあったりもする。

「後漢の時代の記録によると始皇帝は即位中に焚書坑儒をしたと言われています。書物を焼き、儒者たちを生き埋めにした。明の時代の『帝鑑図説』にはその模様が絵に描かれている。しかし、まだ椅子のなかった時代に始皇帝が椅子に座っていたり、燃えている書物が竹簡でなかったりと誤りが目立ちます。」

『帝鑑図説』は1573年の作。遺跡の発掘調査や研究が進んだ現在ではこうした後世の間違いが指摘できる。鶴間氏の話からは始皇帝の人物像について後世の評価ばかりを鵜呑みにしては危ういことがわかってくる。

「では、始皇帝はどういう顔をしていたのでしょうか?」

これは誰でも興味のあるところだろう。実はこの時代、君主は庶民には顔を見せることはなかった。「顔を見せないことが権威づけ」だったのだ。始皇帝の顔も一部の側近のほかは見ることができなかった。ヒントとなるのは司馬遷の史記。そこには「高い鼻」や「吊り上がった目」という記述がある。そのため後世に描かれた肖像はこうした記述に沿ったものが多い。これをさらにリアルに裏付けるものが1974年に発見された兵馬俑だ。始皇帝陵の東方1.5kmの場所にあるこの遺構には等身大の人馬の「俑=埴輪」8,000体が並んでいる。驚くべきは一つひとつ顔が違うこと。しかもその顔はリアルに再現されている。都を守る兵士たちのなかには9体の将軍像もある。鶴間氏はこのうちのとくに凛々しい1体の顔が「始皇帝に似ているのでは」と考えている。高い鼻や吊り上がった目はまさに史記にある通り。しかも兵馬俑は始皇帝その人の即位期間に造られたものだ。同時代だということを考えればこの像が始皇帝当人に似ていた可能性は十分にある。

宇宙を地上に下ろした驚くべき発想

話は兵馬俑から始皇帝陵へ。さまざまな科学調査を重ねた長年の研究の結果、この巨大な陵墓は史記で述べられているような大地下宮殿であることが、現在ではほぼ証明されている。しかも墓室は地下約30メートルにあり、湿度も一定に保たれた環境にあるため、「始皇帝の遺体も腐敗せずに残っているかもしれない」という。だとしたら非常に夢を感じる話だ。

そして宇宙。衛星画像からは始皇帝が住んだ咸陽宮や閣道(渭水橋)、その魂が眠る極廟などの秦の施設の位置関係がよくわかる。これら地上の施設がどのような考えのもとに配置されたのか、それを証明するのが前述した星座にあるというのだ。鶴間氏は語る。

「始皇帝は自らを皇帝と名乗ったばかりではなく、自国を中華の中心にしようと、宇宙の星座をそのまま地上に下ろしたのです」

咸陽宮はペガスス座、閣道はカシオペア座、極廟はこぐま座の北極星、そして北斗七星の場所には阿房宮をもってきた。そうすることによって自国こそが中華の中心であるということを主張したというのだ。
2200年前の人々が編み出した壮大なプランに会場からは感嘆の声があがった。「古代史をやっていると常に頭の半分は2000年以上前のことを考えている」という鶴間氏。だが一方では常に日中両国の関係に思いを馳せている。

「日本と中国は異質の文明。お互いの違いを認識し尊重し合うところから理解は始まる。テレビや展覧会で古代のおもしろさを紹介し、それを現代の世の中で役立てたいですね」

鶴間氏の研究は今日もつづく。

講師紹介

鶴間 和幸(つるま かずゆき)
鶴間 和幸(つるま かずゆき)
学習院大学 文学部 教授
古代中国の歴史を研究、とくに広大な中国という世界が、なぜ一つにまとまったのかということを追究するために、歴史の舞台を踏査しながら独自の中国古代史の世界像に挑戦し続けている。中国文明という大きな時間のスパンで中国を考え、また文明が残した遺産をモノから考えている。「世界四大文明の中国文明展」、「大兵馬俑展」、「始皇帝と彩色兵俑展」などの展覧の監修にも関わる。現在も来年の兵馬俑展を準備中。新しいテーマは「宇宙と地下からのメッセージ」。