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イベントレポート

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2012年10月16日(火) 19:00~21:00

白石 康次郎(しらいし こうじろう) / 海洋冒険家

壁はある。でも乗り越えられる。

高校生のころからヨットでの世界一周を夢見て、いくつもの困難に立ち向かいながら世界最年少単独無寄港世界一周を達成し、さらに40歳にして世界一周レースで2位に入るという快挙を成し遂げた白石康次郎氏。2度に渡る航海失敗・師匠の死・資金集めの失敗・・・大きな壁が立ちはだかった時、同氏がとった行動とは・・・。試練の連続の中、いかにして夢を持ち続け、いかにして夢を達成していったのか。激動の軌跡を通して白石流の「壁の乗り越え方」をお話いただく。

海を見て「水平線の向こうへ行きたい」と思った。

これまでに世界最年少単独無寄港世界一周、単独世界一周ヨットレース『アラウンド・アローン』、日本人初挑戦のクラスⅠで2位に入賞した『ファイブ・オーシャンズ』で地球を3周。さらに太平洋横断や縦断などを合わせると地球5周分ほどの距離をヨットで旅して来た白石康次郎氏。今回のセミナーではその記念すべき第1回目の世界一周航海に至るまでの道のりを中心に「夢に向かって生きていくことの楽しさ」について語っていただいた。
 冒頭、「私の弱点は船酔いが激しいこと」と海洋冒険家とは思えぬ発言で会場を洪笑の渦に巻き込んだ白石氏。尋常でない体験をユーモラスに語る白石節に、セミナーは最後まで笑い声の絶えない愉快なものとなった。
 ヨットというとお金持ちのスポーツ。これは誰もに共通したイメージだろう。だが白石氏の出身は「北区赤羽の都営住宅」。幼い頃は銭湯通いが当たり前の庶民の家に生まれた。その白石少年に世界一周の夢を抱かせたのは、子供のときに引っ越した鎌倉の海だった。この水平線の向こうにはアメリカがある。地球はまるく、一周すれば同じところに帰って来る。そう聞いた白石氏は単純に「行きたい。この目で確かめたい」と思った。
 小学校に入学した頃、交通事故で母親が亡くなった。育ててくれたのは昭和一桁生まれの父と明治生まれの祖母。この二人によって白石氏と兄と妹の三人は「戦前教育を受けた(笑)」という。父と祖母の印象は「とにかくタフ」。家には冷房もなければ暖房もない。食事から洗濯まで、子どもたちは自分で何でもやることを躾けられた。そんな厳しい家庭ではあったが、ひとつだけよいことがあった。
「親父は僕たちのやることに反対もしなければ賛成もしなかった。どんなときも、ただ一言、自分で決めろ、とこれだけでした」
 進路は自分で決めた。高校は「三年生になったら実習航海でハワイに行けるから」と、三崎水産高校へ進学した。

厳しさを教えてくれた水産高校、そして師匠との出会い

三崎水産高校は「先生と生徒の距離が近い」すばらしい学校だった。教室は船で、グラウンドは太平洋。洋上で嵐と遭遇しても新入生だからといって収まったりはしない。ようするに生死のかかった世界だ。いくら願っても順風満帆な人生などありえない。厳しい訓練は海ばかりか人生の厳しさを教えてくれるものだった。この高校での3年間には「心から感謝している」という。
 この頃、白石氏は人生の師に出会う。史上初の単独世界一周レースで優勝を果たした多田雄幸氏だった。その著書に感動した白石氏は東京に住む多田氏を訪ねた。突如押しかけて来て「弟子にしてください」と頼む高校生に多田氏は「じゃあ、今度ヨット乗りに来なせえや」と気さくに応じてくれた。
 ヨットには乗った。乗ったが、岸壁を離れることは滅多になかった。清水港に係留されている多田氏の愛艇では、週末の度に「宴会」が催されていた。師匠は大の酒好き。サックスを吹いたり抽象画を描いたりするアーティスト気質の人だった。職業は個人タクシーの運転手。38歳でヨットを始め、52歳のときに自らの手で造ったヨットで世界一周レースに臨んだ。白石氏はそんな師匠を「破天荒な人だったけれど大好きだった」と話す。師匠も歳の離れた弟子を「こうちゃん」と呼んでかわいがってくれた。海の上でもうるさいことは言わない。ただその背中から「ヨットは楽しむもの」だということを教えてくれた。
 水産高校卒業後は造船所で2年間の修業。これで船の修理もできるようになった。いくつかのレースのクルーを経て、セーラーとして技術を磨いていった。

自分の心を透明にして海と向き合う

そんなとき、師匠がふたたび世界一周レースに挑んだ。サポートにまわった白石氏はそこで最悪の結果を目にする。レース展開が不首尾に終わった師匠はオーストラリアでリタイア。鬱状態に陥って自殺を遂げてしまう。
 「なんとか師匠の汚名を晴らしたい」と、多田氏の愛艇をシドニーから日本へと回航した白石氏は、自らの世界一周実現に向かって走り出す。そして単独無寄港世界一周の航海に挑戦。しかしそれは舵の故障やマストの破損などで二回連続失敗に終わる。
「一度目はまだしも二度目は深く落ち込んだ」
 それまで自分は「夢はがんばれば叶うもの」と信じていた。だが、「こてんぱんにやられて鼻をへし折られた」。弱気になり、協力者である造船所の親方に「なにがいけないんでしょう」と尋ねた。親方は短く、「こうちゃんはヨットのお尻を叩いて走らせているみたいだな」と呟いた。この一言で自分本位であった自分に目が覚めた。
「世界一周したいのは僕であって海ではない。夢というフィルターを通して海を見ていたから失敗したんだと気がついたんです」
 ここで白石氏は将棋の羽生善治名人と対談したときの内容を披露してくれた。羽生氏と話してわかったのは将棋とヨットとの共通点。どちらも一度に二手は許されない。セールを上げながら舵は握れない。その一手ごとに決断が迫られる。それを正確に見極めるには澄んだ心で海と向き合わなければならない。
 海は、自分が沈んでしまったところで「ただふうっと風が吹くだけ」。海そのものは自然であり、そこに個人の夢は関係ない。
「自分の心をいかに透明にするか」
 これに気がついたことで道が開け、三度目の挑戦で世界最年少記録となる単独無寄港世界一周の偉業を達成した。26歳のときだった。
 海外体験も豊富な白石氏。外国にいるときにもっとも大切なものはなにかについても話してくれた。それは「よき日本人であること」。日本人ほど世界でルールを守る民族はいない。その長所を活かせば世界の人々は称賛してくれるという。
「僕の幸せは自分の思ったこととやっていることが一致していること。人は夢を外にさがしに行きがちですが、夢は実は自分のなかにある。あと10年は選手として夢を追い続けて、引退後は子どもたちの教育に力を注ぎたいですね」。これからの夢を語ったところで、満場の拍手とともにセミナーは終了した。

講師紹介

白石 康次郎(しらいし こうじろう)
白石 康次郎(しらいし こうじろう)
海洋冒険家
少年時代に船で海を渡るという夢を抱き、26歳でヨットによる単独無寄港 世界一周の史上最年少記録を樹立。2006年には念願の単独世界一周ヨットレース「ファイブ・ オーシャンズ」に参戦し、歴史的快挙となる2位でゴール。現在は、最も過酷な世界一周ヨット レース「ヴァンデ・グローヴ」への出場を目指している。ヨット以外にも、子ども達と自然を体感する「リビエラ海洋塾」の開催や、「小学生のための世界自然遺産プロジェクト」のプロジェクトリーダーなど、子ども達に自然の尊さと「夢」の大切を伝える活動に積極的に参加している。