スルガ銀行 Dバンク支店

SURUGA d-labo. Bring your dream to reality. Draw my dream.

イベントレポート

イベントレポートTOP

2012年11月6日(火) 19:00~21:00

池田 裕(いけだ ゆたか) / 筑波大学名誉教授/中近東文化センター附属三笠宮記念図書館館長

旧約聖書の自然観
~ヘブライニズムとヘレニズム、そして日本の視点から~

旧約聖書は、長い時の流れの中で生まれた多種多彩な伝承、歴史物語、詩歌、知恵文学から成る人類の知的遺産である。もともとはヘブライ語で語られ記されていたが、紀元前3世紀頃、アレクサンドリアのユダヤ人たちの手でギリシア語に翻訳された(いわゆる「七十人訳聖書」)。旧約聖書の自然観について、ヘブライズムとヘレニズム、そして日本(特に東日本大震災以後)の視点から眺め、考えてみませんか。

感性と感性との対話を

d-laboがシリーズで取り組んでいる「アレクサンドリア・プロジェクト」。14回目の今回は、筑波大学名誉教授の池田裕氏をお招きし、その専門である『旧約聖書』について語っていただいた。現地で研究を重ね、古代オリエント史について数多の著書を持つ池田氏。語り口もまた軽妙にして洒脱で、聴いているとはるか遠い昔に記された『旧約聖書』が身近なものに感じてくる、そんな2時間となった。
今回のテーマは『旧約聖書の自然観』。律法、預言書、諸書の3部作からなる『旧約聖書』は、ヘブライ語で記されたユダヤ教の聖典であり、キリスト教の『新約聖書』の土台となった書だ。現代のユダヤ教の『タルムード』やイスラム教の『クルアーン(コーラン)』も元をただせばここに辿り着く。まさに人類の知的遺産と言える書である。
「ただ、それだけでは満足できないのが私でして…。」と池田氏。『旧約聖書』を語るとき、普通、そこに日本は関係してこない。だが長年『旧約聖書』に携わってきた池田氏の目には、両者に共有するものが見えている。その戸口となるのが「自然観」だ。
「『旧約聖書』の感性と日本の感性が対話をすることで新しいものが出て来るのでは。そうすることで『旧約聖書』も成長するのでは、と考えているのです。」
現在の日本は東日本大震災という未曾有の災害を体験したばかり。あの震災は、日本人に意識の変革をもたらした。同様に『旧約聖書』にも時代の転換期に直面した人々の思いが綴られている。諸書の1つである「コーヘレト書」。その第3章にはこうある。
「日の下では、すべてに時期があり、すべての出来事に時がある。(中略)崩すに時があり、建てるに時がある」
被災地の東北はここにある「崩す時」に遭った。自身いわく「2000年前の人間」である池田氏にとって、コーヘレト書は現代書も同じ。いまだ「建てるに時」を迎えていない東北の被災地を思うとき、コーヘレト書のこの一節を「痛切に感じる」という。
「『旧約聖書』はノアの箱舟にしてもバビロン捕囚にしても、苦しい経験や失敗の記録です。ヘブライ人(ユダヤ人)はそれを民族の最大の教訓として語り続けたのです。」
日本人も同じように東日本大震災を語りつづけてゆかねばならない。そしてやがては悲惨な体験をした被災地の子供たちの中から、想定外の出来事に対応する胆力を備えた次代の日本のリーダーが生まれるのではないか。池田氏は「直感的に」そう感じていると話す。

『旧約聖書』の中の無常

さて、『旧約聖書』の主要な舞台であるイスラエルやパレスチナの自然とはどのようなものであるか。特徴的なのは、ヨルダン川を除けば川らしい川がないことだ。水問題は常に深刻。1年は大きく乾期と雨期とに分かれ、年間降水量は500~600ミリメートル程度しかない。こうした土地柄だからか、『旧約聖書』の中には「春」や「秋」を示す言葉は存在しない。「しかし」と池田氏は言う。「短いけれども、春も秋もあります。」と。現地の人々はその短い春と秋を感じて生きてきた。季節を感じさせる記述も残っている。
「代表的なものが、エルサレムで言うならば雨期から乾期に変わるときに吹く東風です。」
『旧約聖書』中のヨナ書によると「太陽が昇ると、神は灼熱の東風を備えた」とある。またエゼキエル書は「東風がその実を枯らし、それらは奪いさられた」と記している。東風が大変な脅威であったことがわかる。
これが日本となると「亀の甲並べて東風に吹かれたり(小林一茶)」といったようにずいぶんのどかな「東風」となるのだが、地域によっては異なる。山形県の庄内地方を舞台に描いた藤沢周平の小説などは「氷のような東風が、棚田の上をふき荒れる」と、東風のおそろしさを描写している。熱い風と冷たい風の違いはあっても、強い風が作物に被害をもたらすという点では両者は一致している。
では宗教はどうか。一説に、多神教は感じる宗教であり、一神教は信じる宗教、日本人は無常観に生き、西洋文明はノアの箱舟にあるように生き残りの思想を第一義とする、とこのように言われている。けれど実際の『旧約聖書』には「草は枯れ、花はしぼむ」など「無常観が満ち溢れている」と池田氏は話す。
「違うのは、最後にプラスアルファがあること。無常を語っていながら、〈だが我らの神の言葉は、永久(とこしえ)に立つ〉とイザヤ書は説いています。」
こうした差はあるが、一神教もまた多神教的な「感じる」部分のある宗教なのだ。

理解の分かれ目は「感じるか、感じないか」

前述した「コーヘレト書」が生まれた時代は、ちょうどアレクサンドロス大王が世界を席巻し、アレクサンドリアという都市ができた時代でもあった。ヘブライ人にとってはギリシア文明が怒濤の如く押し寄せたグローバリゼーションの時代だ。そのなかで、『旧約聖書』をギリシア語に訳した「七十人訳聖書」がつくられた。古くからこの訳書の完成度の高さを語る伝承が語られてきたが、池田氏によるとヘブライ的「感性」の視点からいうと不十分なところがあるという。
「かれらは、その日の風の吹くころ、神ヤハウェの(足)音を聞いた。人とその妻は神ヤハウェの顔を避けて園の木々の間に身を隠した」
アダムとエバ(イヴ)が禁断の木の実を食べてしまったときのエピソードだ。大切なのは「その日の風の吹くころ」という部分。これがギリシア語訳ではたんに「夕方」とされている。若い頃、イスラエルに長く暮らした池田氏だからこそ指摘できることだが、「現地で夕方に吹くこの風はとても爽やかなもの」だ。アダムとエバはその風に乗って来る神の足音を聞いた。それは「感性」にほかならない。
「『旧約聖書』の中には感性に訴える記述が少なくありません。人種は関係ない。『旧約聖書』がわかるかどうかの分かれ目は、感じるか、感じないか、そこにあるんです。」
セミナーの締めは現代のユダヤ人国家であるイスラエルの紹介。第4次中東戦争の時代、ヘブライ大学大学院に学んでいた池田氏はイスラエル人の前へ前へと生きてゆく姿勢に心を打たれた。四国程度の広さしかない国土の中で、ミサイルが飛び交う環境にあっても画家は絵を書き、研究者は研究をつづける。そして一朝ことあらば兵士として戦場に出る。その精神的スタミナには見習うべき点が多い。
「私も彼らのようなスタミナをつけたい。それが自分の夢ですね。」とご自身の夢を語っていただき2時間のセミナーは幕を閉じた。

講師紹介

池田 裕(いけだ ゆたか)
池田 裕(いけだ ゆたか)
筑波大学名誉教授/中近東文化センター附属三笠宮記念図書館館長
旧満州生まれ。青山学院大学博士課程修了後、1969年から1977年までエルサレム・ヘブライ大学大学院に学び(ユダヤ学・古代オリエント史)、同大学より学位(Ph.D)取得。主な著書に、『旧約聖書の世界』(三省堂選書・岩波現代文庫)、『岩波講座世界歴史・古代オリエント』(岩波書店)、『死海文書Q&A』・『聖書と自然と日本の心』(以上ミルトス)、『エルサレム』・『聖書名言辞典』(以上講談社)、『古代オリエントからの手紙』(リトン)、『総説旧約聖書』(日本基督教団出版局)。訳書に、『サムエル記』・『列王記』・『歴代誌』(以上岩波書店)、『エジプト歴代王朝史』・『ギリシア神話の世界』・『考古学』・『死海文書大百科』・『世界の碑文』・『図説古代オリエント事典』(以上東洋書林)、『聖書歴史地図』(原書房)、『ユダヤ人イエス』(教文館)などがある。