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イベントレポート

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2012年11月27日(火) 19:00 ~21:00

岡本 哲志 (おかもと さとし) / 岡本哲志都市建築研究所代表

「民」が生みだす空間とは
- 銀座の歴史が語りかけること-

世界に名の知れた繁華街・銀座。銀座にあやかろうと、 銀座を冠した街が全国にある。ところで、銀座はどのよう にしてでき、今日の地位を得たのか。このことは知られて いるようで、あまり探求されてこなかった。 銀座を調べていくと、面白いことが見えてくる。そのなかで、 銀座の「大規模土地所有者」と「路地」に焦点をあててみる と、この全く異なる2つのテーマが、銀座では思いがけず 重要な核心となる。「路地」は銀座煉瓦街建設の切り札 として登場し、銀座がドラスティックな近代化を支えた。 「大規模土地所有者」は銀座の独自性と経済・文化の下支 えとなった。これら2つのアイテムが機能しなければ、現在 の銀座は銀座になり得なかった。銀座だから、いまの銀座 があるわけではない。日本が誇る街「銀座」の歴史から、 都市空間の現状、そして未来を考えてはいかがだろう。

銀座の街に残る江戸時代の痕跡

都市形成史の専門家として約20年にわたって銀座を研究してきた岡本哲志氏。本セミナーはこの岡本氏に、「路地」と「大規模土地所有者」という2つの視点から銀座という街がどのように推移してきたか、江戸時代の図絵や明治期以降の写真、古地図などと照らしあわせながらお話しいただいた。
銀座の歴史は江戸時代に遡る。町がつくられたのは1612年。現在の銀座2丁目付近で銀貨の鋳造が行われたことから「銀座」という名がつけられた。銀貨の鋳造所自体はその後に起きた不正事件で銀座から離れてしまうが地名は存続し、今に至っている。
岡本氏が最初に説明したのは、当時の武家地と町人地の違い。丸の内など広い面積を持つ大名屋敷が並ぶ武家屋敷に対し、日本橋や京橋、銀座などの町人地は町割が細かい。1つの区画には幅10メートル、奥行き40メートルの町屋敷が短冊状に並び、その中心に「会所地」という空地がある。こうした町人地はたいてい表通りに店が並び、その間に路地が延び、そこには長屋が連なっているという造りになっている。また町人地の特長としては、道路が町の境界線とはならず、その両側を1つの町として扱う点があげられる。古地図を見ると、町名が道路に記されているのはこの町割に由来する。ちなみに銀座は日本橋や京橋のあとにつくられた町であり、2つの町人地をつくった経験が生かされている。おもしろいのは商家に京間1間(約2メートル)の庇地があること。「江戸の人たちは暖簾をくぐった2メートル奥で商いをしていました」と岡本氏。この不思議な空きスペースは朝鮮通信使を迎えた際に行われたパレードでの桟敷席をつくるためのものだったという。ビル街となった現在の銀座にもその痕跡は見られる。銀座通りの16メートルの車道は江戸時代からつづくもの。つまり、車道と歩道の境界が江戸時代に商家の暖簾がかかっていた場所となるわけだ。研究者である岡本氏は常にこうした視点で銀座を見つめている。なかでも注目しているのは「路地」の果たした機能だ。

路地が「きらびやかな銀座」をつくった

完成した銀座の町。しかし、1657年の明暦の大火によってそれは焼けてしまう。この大火を機に、それまでは袋小路だった銀座の路地は大きく変化し、表通りの裏には新道(裏通り)が敷かれるようになった。現在の銀座には歩道のある道とない道がある。歩道のない道がこの「新道」だ。前述した庇地と同様、こうした知識があれば銀座散歩がより楽しくなるだろう。
明治期、銀座は「煉瓦街」と呼ばれる西欧的な街並みが造られ、日本の中心地となる。煉瓦街の建物はそれまでの江戸の家々に比べるとずいぶんと横に長い。そのぶん建物と建物の間を通る路地が減ってしまった。そこでこの時代の人々は表通りから裏通りへ、あるいは横丁から横丁へとつながる路地を新たに設けた。人々はこの路地沿いに居住区をつくり、通り沿いには生活感とはかけ離れた舶来の品を扱う商店を配置することで、江戸時代以来の生活を守りつつ新しいきらびやかな銀座をつくるという事業を成しとげた。
しかし、そんな近代の銀座も関東大震災でいったんは灰燼と化す。この地震の教訓から晴海通りと外堀通りが一気に拡張する。実はそれに大きく寄与したのが「大規模地主」だった。吉田嘉平や小林伝次郎といった当時の地主たち。彼らは「うちの土地を削ってもいいから」と進んで道路の拡幅に協力した。江戸期の誕生以来から、銀座という町は「お上」が外の形をつくり、内部は町人=「民」の自由にさせてきたという歴史がある。この一例だけでも、長い歴史の中で育まれてきた銀座の「民」の気質や気概が窺える。こうした大規模地主自体は、大正時代以降、世論や法律の改正もあって減っていったというが、その精神は後の人々にもしっかりと受け継がれているという。
「関東大震災後、銀座には2つの大きな出来事がありました」
岡本氏が挙げたのは関西資本の流入と日本橋から築地への中央卸売市場の移転だ。関西資本がつくったのは関西割烹。すぐ横には新鮮な素材が並ぶ魚河岸がある。関西と江戸前の良さをミックスした割烹は銀座の「食」のレベルを上げた。これによって「食の銀座」が生まれた。こうした関西割烹が店を開いたのは横丁や裏通り。これに影響されたか、間に戦争を挟んだものの、昭和20年代には銀座の路地には多数の飲食店がオープンする。表通りは大規模店、飲食店は裏に並ぶといった現在の街の基本形はこの頃にできたものだ。

「民」=地元の人々がつくる「銀座らしさ」

話はその後、現在の銀座へ。
「もしここ10年ほど銀座に来ていない人が今の銀座に来たらびっくりされるはずです」
その理由はビルの建て替えだ。老舗も数多く残っている銀座だが、表通りにはそれまでになかったブランドショップが並び、一見すると大きく様変わりしていることが街を歩けばわかる。そのペースは「高度成長期と同じかそれ以上」。だが、猛烈な加速度で変貌しているにも関わらず、なぜか「らしさ」を失わないのが銀座でもある。その銀座らしさをつくっているのが、ほかならぬ住人たちだ。たとえば、この街には超高層ビルがないし、今後も計画はない。国や都は推進しようとしたのだが、それを止めたのが地元の人々だった。現在の銀座では56メートル(広告塔を含めると66メートル)以上のビルは建てられないと定められている。この数字は「銀座らしさ」を求めた結果生まれたものだ。街を愛する人々が出した結論。むろん、そこには研究者としての岡本氏の取り組みも反映している。
銀座らしさはまだ他にもある。「銀座のビルの2棟に1棟はホールがある」と岡本氏は話す。文化芸術を大切にするのも銀座ならではだ。これは戦前、外堀通りを広げる際に吉田嘉平の息子であった吉田嘉助が画廊などを誘致したことから始まる。こうした1人の努力をリレーのように多くの人がバトンタッチし、街づくりをつづけてきたのが銀座なのである。外側が変貌しても「らしさ」は変わらない、「分厚い街」としての銀座の魅力の根源は「民=人」にあるのだろう。
「夢」ついて岡本氏はこう語る。
「夢は自分で実現するよりも、ぼんぼんぶつけて誰かが拾ってくれるのを待つといい」
自身の「夢」は「本を書いてゆく」ことだ。
すでに銀座についてだけでも単著が3冊ある岡本氏。「たとえ売れなくても誰かが読んで何かを考えてくれるのでは」と、自著が銀座の未来に役立つことを願っている。

講師紹介

岡本 哲志 (おかもと さとし)
岡本 哲志 (おかもと さとし)
岡本哲志都市建築研究所代表
1952年東京都生まれ。博士(工学)。専門は都市形成史。法政大学大学院兼任講師、法政大学エコ地域 デザイン研究所研究員。東京研究、港町研究に長年携わる。銀座・丸の内・日本橋の都市形成史に明るい。 主な著書に、『港町のかたち』(法政大学出版局、2010年)、『「丸の内」の歴史』(ランダムハウス講談社、2009 年)、『銀座を歩く』(学芸出版社、2009年)、『銀座四百年』(講談社メチェ、2006年)、『江戸東京の路地』(学芸 出版社、2006年)、『銀座』(法政大学出版局、2003年)などがある。2011年都市住宅学会著作賞受賞(共同)。