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イベントレポート

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2013年2月7日 (木) 19:00 - 21:00

六川 亨(ろくかわ とおる) / サッカージャーナリスト

「アナログからデジタルへ」 取材現場に見るメディアの変遷

いまでこそ原稿は、パソコンで書き、ネットで送るのが当たり前。写真もパソコンに取り込めば送信できる。最近ではスマホと携帯型のキーボードを使うライターも出始めた。しかし、つい30年程前までは原稿用紙に鉛筆で書き、原稿の受け渡しは郵送か直接取りに行くというアナログ時代だった。それがFAXの普及に続きワープロの登場で原稿用紙が消滅。さらにワープロ通信、パソコン通信の発達によりメディアの仕事方法は飛躍的に進歩した。こうした変化に伴い、紙媒体とネット媒体では原稿の書き方にも変化が出てきている。サッカージャーナリストとして、30年もの間メディアの変遷を見続けてきた六川氏にメディアの過去、現在、そして未来についてお話いただく。

30年前、サッカー人気は低く、取材現場は「アナログ」だった

講師の六川亨氏は『月刊サッカーダイジェスト』の記者から始まって、30年に渡りサッカー界を追いかけてきたベテランのジャーナリスト。今回のセミナーではタイトルに掲げた取材現場における「アナログからデジタルへの変遷」についてはもちろん、記者としてともに歩んできた日本サッカーについて、舞台裏的なエピソードを交えながら、サッカージャーナリストならではの話を披露していただいた。構成は、前半がテーマにそっての体験談、後半の1時間は質疑応答に終始。述べ18名の参加者が質問を投げかけるというd-laboらしい参加型の講座となった。
さて、現代では文書のやりとりはメールが中心。書いた原稿や書類は瞬時にして届けたい相手に送ることができる。写真も然り。動画や音声もデータ通信が可能な時代となった。
が、あらためて振り返ると、それが普及したのはつい10数年前のこと。それ以前は文書を送るのはファックスが主役だったし、さらに遡ると、六川氏がサッカー界に飛び込んだ1980年代のはじめ頃は郵送や直接届けることが当たり前だった。速報性を問われる新聞記者ともなると、試合が終わると会社に電話をかけ、口頭で自分の書いた原稿をデスクの人間に伝えていたという。原稿はもちろん手書き。いま思えば「きわめてアナログな時代」だ。サッカー人気にしても今と比べると雲泥の差。まだまだ認知度の低い時代だった。
その後、80年代の後半にファックスやワープロが登場し、原稿はプリントしたものを現地からファックスするという時代になった。
六川氏がこの新兵器を使い始めたのもこの頃、1990年のW杯イタリア大会では「ワープロとプリンターを抱えて現地に飛んだ」。モバイル機器の発達した現在と比べるとずいぶんと重い荷物だったに違いない。

時代とともに変わったサッカージャーナリストの仕事

こうした「面倒」から記者たちが解放されたのは、パソコンが出始めた90年代に入ってから。まず皆がこぞって使ったのはメールに近い機能を持つワープロ通信だった。その後、デジタル機器は日進月歩の進化を辿る。94年のW杯アメリカ大会では『Number』誌が写真電送を活用、他誌の記者たちを驚かせた。
「あの頃は日本代表も強くなって海外で戦うことが多くなった。ライバル誌よりいかに早く写真を送るか、それを競争していました。」
ただし、デジタルでデータを送りたくても通信事情はその国によって大きく異なっていた。99年、途上国のナイジェリアでワールドユースが開かれたときは、同国から日本に直接画像を送ることができず、モロッコ、ドイツを経由して送信するという手段を使った。通信費は何と100万円。「言い訳に苦労しましたよ」と、六川氏は苦笑いで当時を回顧する。だが、無線でのデータ通信が発達した現在では、へたをすると途上国の方が通信事情がよかったりもする。たとえば2006年のW杯ドイツ大会では宿舎のホテルに敷かれた有線の送受信速度が遅く、思わぬ苦労を強いられたという。
文書以上に劇的な変化を遂げたのは写真だ。報道各社が一斉にデジタルカメラを使用し始めたのは2000年のシドニー五輪から。デジカメは速報性とコストダウンの両面でメディアの強い味方となった。
デジタル機器が進化した時代。それは六川氏たちサッカージャーナリストにとっては、「書く原稿そのものにも変化が求められた」時代でもあった。この30年は奇しくも日本のサッカーが大きく発展した時代とも重なる。六川氏がこの世界に入った頃、サッカージャーナリストと呼べる人間は数えるほどしかいなかった。それがJリーグが発足し、日本代表がW杯をめざすようになると新聞、テレビがサッカーを大きく報道するようになった。かつて専門誌の役目だった「試合の再現」はテレビ中継によって必要がなくなり、雑誌記者は「論評」が仕事となった。
「変わらないのは、“取材は人間対人間のものである”ということ。コミュニケーションがとれれば選手の本音も聞ける。今は昔ほど記者と選手がふれあえない時代ですが、ジャーナリストとしてこの基本は忘れたくないですね」
選手との信頼が構築できれば、ときには怒らせるような質問をぶつけることもできる。そこから相手の意外な一面を見つけたりすることは「記者冥利」に尽きるという。

セミナー後半は、質問、質問、また質問

アナログからデジタルの変遷が「現在」に至ったところで前半が終了。すぐに始まった後半は、「記者に資格は必要か?」、「海外メディアと日本のメディアの選手に対する報道姿勢の違いについて」、「野球はキャンプを公開するがサッカーは非公開。その理由は?」、「自分だけの特ダネを得たことは? それを聞き出す方法は?」、「カメラマンの写真が使えずに困ったことは?」、「20 代30代の若いサッカーライターに期待することは?」、「高校サッカーはどうあるべきか?」等々の質問が次々に飛び交った。それに対し実体験に基づいた回答をする六川氏。中田英寿や長谷部誠、川口能活、中村俊輔、本田圭祐、あるいはベッカム、トッティといったお馴染みの名前を挙げながら、サッカージャーナリストらしい視点やその仕事の中身を惜しげなく開陳してくれる姿からは、サッカーを本当に愛する六川氏の姿勢が伝わってくる。同時に感嘆させられたのは、大手メディアの記者とは一味違う、フリーのサッカージャーナリストとしての独自の視点。ちょうどセミナー前日に行なわれた日本代表とラトビア代表の試合についても、テレビや新聞が得点シーンばかりを報道するのに対し、六川氏は岡崎慎司選手のワントップとしての可能性をメインに言及、そこから期待できる今後の日本代表のパフォーマンスを占ってみせてくれた。
最後は「夢を追っていてよかったこと」と「今後の夢」についての質問。
「よかったことはJリーグが発足したことです」
サッカージャーナリストとなった頃は、「正直、ワールドカップに出られるとは思っていなかった」。それが実現したのはやはりプロリーグ化=Jリーグの存在が大きい。
今後の夢は「サッカー以外のスポーツのクラブ化」。そしてもうひとつ。
「家の近くの『としまえん』にスタジアムをつくってプロチームを呼ぼうという動きがあるんです。ささやかですが、ボクも署名活動などをしてお手伝いしているんですよ。」
書くことを通じてサッカー界に貢献したい。六川氏の思いが印象に残ったセミナーだった。

講師紹介

六川 亨(ろくかわ とおる)
六川 亨(ろくかわ とおる)
サッカージャーナリスト
1957年東京都出まれ。月刊サッカーダイジェストの記者を振り出しに、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長を歴任。01年に転職し、CALCIO2002の編集長を兼務しつつ浦和レッズマガジンなど数誌を創刊。W杯やEURO、南米選手権、五輪などを取材し、10年3月にフリーの記者に。携帯サイトの「超ワールドサッカー」でメルマガやコラムを長年執筆。主な著書にDVD付ムックの「Jリーグ・レジェンド」シリーズ、「Jリーグ・スーパーゴールズ」(コスミック出版)、「サッカー戦術ルネッサンス」(アスペクト社)、「ストライカー特別講座」(東邦出版)などがある。