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イベントレポート

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2013年2月27日(水) 19:00~21:00

松久保 伽秀(まつくぼ かしゅう) / 奈良薬師寺 執事

千三百年の歴史と日本の精神文化

奈良薬師寺は、お写経の力で奈良時代からの千三百年の時間を経て、昭和・平成の世に当時の荘厳な姿を少しずつ取り戻してきました。何年もかけて取り戻していくという精神力は一朝一夕で出てきたものではありません。昨年一年間、二か月に一度、薬師寺の僧侶は東日本大震災の跡地を、そのお写経を携えて回ってきました。そこに立ち、悲しみと諦め、嗚咽と嘆きしか出て来ない状況でも、見つけたものがありました。教えてくださったものがありました。日本が長い歴史を通して培った精神文化と符合する震災後の日本が垣間見えたのです。

「飛鳥」「白鳳」「天平」の3つの時代を合わせて「奈良時代」と呼ぶ

かたよらないこころ こだわらないこころ とらわれないこころ
  ひろくひろく もっとひろく これが般若心経 空のこころなり
  仏法はまるい心の教えなり あかるい心の教えなり ひろいこころの教えなり
『般若心経』についての言葉から始まったセミナー。講師の松久保伽秀氏は奈良・薬師寺の執事。「ほんの4時間ほど前までは南三陸にいました」という言葉の通り、東日本大震災被災地での支援活動で多忙な中のセミナー開催となった。薬師寺といえば第124世管主の高田好胤管長が始めた洒脱な語り口の法話で有名。もはや伝統芸ともいえるその「高田流の喋り」は当然ながら松久保氏にも受け継がれている。会場はそのユーモア交じりに真理を伝える「喋り」によって笑いに包まれた。
薬師寺が創建されたのは約1300年前の奈良時代だ。現代人は奈良時代というと漠然とひとくくりに考えているが、実際の奈良時代は「飛鳥、白鳳、天平、この3つをまとめたもの」である。
飛鳥時代の代表的な伽藍は法隆寺。白鳳時代は薬師寺。そして天平時代が東大寺。3つの寺はそれぞれ約70年の時間差をもって建てられた。現代に仮定してみると「昨日今日、東大寺ができたとすれば、薬師寺は戦争中の昭和18年、法隆寺は明治5年に建ったということになります。」
明治5年と現在とでは文明も人間の価値観もずいぶんと変わっている。そう考えると奈良時代をひとくくりにするのは乱暴な話だ。もし奈良に行くのであれば、ここはやはりこの3つの寺は見比べたいところだ。
たとえば、法隆寺には塔は1つしかないが、薬師寺には東塔と西塔という2つの塔がある。
なぜ2つあるのか。それを解くにはまず寺にある「塔」が何なのかを知る必要がある。
「塔というのはお釈迦様のお墓です。内部にはお塔婆としての心柱が建っています。」
普通、人は亡くなると墓と位牌が残る。墓は肉体を、位牌は魂を祀るものだ。これと同じように薬師寺の塔は東塔が肉体を、西塔が魂を祀っている。この思想は法隆寺の時代にはまだなかった。ゆえにそれが塔の数の違いとなって表われているのである。

東北は必ずもとに戻る

松久保氏が薬師寺に修行に入ったのは小学5年、10歳のときだ。実家を離れての修行は10歳の少年には辛いものだった。毎朝5時から6時は「朝のおつとめ」。それから朝食の粥をすすって学校へ出かけた。粥だけでは腹が持たず、途中にある実家に寄って「パンを1枚食べる」のが習慣となった。毎朝、家に来てはパンをかじる長兄を8歳下の末の弟は兄とは思わず「踏切の向こうのお寺から来る人」と認識していた。学校のない夏休みは「地獄」。「朝から晩まで大人の先輩に怒られっぱなし」だった。3日間だけ許された帰宅は母の機転で「腹痛」になり1日延ばした。仮病は当然のことながら先輩にばれていた。だが、いつもはこわい先輩がこのときばかりは「よかったな」と言ってくれた。修行は厳しいばかりではない、と初めて気付いた瞬間だった。
「お寺というのは人を育てる場所です。だから我々のお寺では葬式はしていないんです。」
薬師寺はその名の通り、金堂に「薬師三尊像」を置いた病気平癒を祈願した寺院だ。天皇の病気の平癒を祈り、人々を疫病から守ろう、国家を安穏ならしめたいという思いで建てられた。中心となって創建したのは40代天武天皇とその皇后だった41代持統天皇。松久保氏たち薬師寺の僧侶はその奈良時代の人々の思いを背負って日々精進している。
セミナー直前まで被災地の宮城県を巡っていた松久保氏。今回の訪問は5回目。訪問先では写経の会を催している。
「日本人は70年前にも戦争という悲惨な体験をしました。今日は被災地を語ると同時にそれもご紹介させていただこうと思います。」
配られたプリントにあったのは報道写真家ジョー・オダネルの写真と文章。遺体を燃やす焼き場に死んだ赤ん坊の弟を背負って来た少年。悲しみを宿した目が強く印象に残る1枚だ。松久保氏は、これと同じ目を被災地で見たという。ジョー・オダネルの写真の少年は生きていれば80歳前後。悲しくはあるが意志的な表情を見ると、きっとその後の人生を立派に生きたであろうことが想像できる。
「わたしが見た〈同じ目〉とは、東北での写経の会で見せていただいた一枚の写真でした。写真に写っていたのは村の踊りをしている中学生の姿でした。後ろには師匠役の男性が立って、少年を優しい目で見守っている。一方の少年の目は、必死に涙をこらえている、あのジョー・オダネルの写真の少年にそっくりなものでした。」
本来なら、後ろにいて踊りの指導をしてくれるのは少年の父親だった。だが、父親は津波にのまれてしまい、「現在も行方不明」だという。
人は悲しみを背負うと、この少年のような瞳を持つ。そしてそれは、見る者に強い印象を与え、心をふるわせる。講師にはけっしてこうした悲劇を「美化」するつもりはない。だが、この目には「前を見て生きる力」を感じる。
「震災からまだ二年。東北に行くと辛いこと悲しいことがいっぱいで、法話をしても通じないこともたくさんあります。しかし、東北の人たちにはこの少年のように前を見て生きる力があるはずです。」
その東北には、こんな人もいるという。
「被災地では100人中98人までの方が〈津波のせいで〉と言います。当り前です。だけどごくたまに〈津波のおかげで〉とおっしゃる方がいたりもします。」
その中の1人に「それはなぜですか」と松久保氏は尋ねた。相手が語ってくれたのは、あの震災がなければなかった支援者との出会いや、極限の中で肌で感じた「人間は生かしてもらっている」という思いについてだった。
「これを聞いて、東北は必ずもとに戻っていくと、私はそう確信しました。」

薬師寺の建立、「載(の)り上げ~宣(の)り上げてきた時代」

1300年前、奈良時代の人々はそうした気持ちを祈りにしていた。祈りはこの時代、「意宣」または「意載」と書いていたという。薬師寺の東塔には17メートルの檜を2本つなげた心柱が立っている。その柱には「福億劫崇」「慶萬齢溢」(慶び事がいつまでも長い時間つづいてどうぞわたしたちのところへたれてくれますように)という願いの言葉が刻まれている。屋根の上の水煙は透かし彫り。上には舞い降りる飛天が、下には跪きそれを迎え入れる人々が彫られている。平屋ばかりの当時としては技術の粋を集めて造られたこの東塔。その建築法には「いったいどうやって建てたのか」といった謎も多い。クレーンなどない時代、高さ34メートルの塔の建設は現代で言うならば東京スカイツリーを建てるようなものだ。部材の中に200キログラムに達する物もあった。それを垂直に積み上げていくのは危険に満ちた難事業にほかならない。それでも当時の人々は敢えてそれに挑んだ。そのとき人々を動かしたのは「福億劫崇」「慶萬齢溢」を念じた祈り=意を載せる、意宣りだったのではないだろうか。松久保氏はそれを「載り上げ~宣り上げてきた時代」と呼ぶ。
同様に、東北の被災地では崩れ去った堤防の跡に、また新たな堤防を築こうとしている人々がいる。これもまた人々が抱く次の時代への「意載り」であり「意宣り」に他ならない。「載り上げ~宣り上げてきた時代」は人がいる限りつづいていくものなのかもしれない。
東塔は現在修理解体中。修理完了は平成31年の予定だ。松久保氏はそれを担当する任にも就いている。心柱などはシロアリの被害などで相当に痛んでいる。「ご先祖様が築いたものを次の世代に残したい」、寺の僧侶として願うことはひとえにこの一点だ。
参加者からの質問は、はからずもこの東塔についてが中心。「塔は沈下も計算に入れて建てられる」、「奈良時代はすべての建物を班ごとに分かれて一斉に造った」、「回廊の柱の隙間が場所によって違う」など、興味深い話を聞くことができた。
「東塔がちゃんと祈りの気持ちを載せたまま6年先に建つこと。それに東北が輝かしい光とともに甦ること。今の夢はこの2つです。」
感謝の拍手でセミナーは幕を閉じた。

講師紹介

松久保 伽秀(まつくぼ かしゅう)
松久保 伽秀(まつくぼ かしゅう)
奈良薬師寺 執事
1966年生まれ。1995年3月 名古屋大学文学部修士課程修了。
1998年8月 薬師寺録事に就任し、2009年 8月より現職 。