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イベントレポート

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2013年5月24日(金) 19:00~21:00

名知 仁子(なち さとこ) / 特定非営利活動法人ミャンマーファミリークリニックと菜園の会代表

これが私の生きる道 ミャンマーに医療と希望を
~日本人女医名知仁子の挑戦~

名知氏が代表を務める「NPO法人ミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会(MFCG)」は、ミャンマーの人々のために「クリニック」「菜園」「保険衛生教育」の3つを提供する準備を進めています。国境なき医師団の一員として、ミャンマー人難民キャンプでの診察の際に衝撃を受けたという名知氏。聴診器一本で患者と向き合うしかなかった環境で、「患者の身体の声に耳を傾け、的確な診断をくだすという、医療の原点を教えられた」と語る。過酷な海外の医療現場で活躍する名知氏が提案する、「菜園と医療の自立循環型支援」とは。

マザー・テレサの言葉にふれて

 民主化が進み、企業の進出先としても脚光を浴びているミャンマー。そのミャンマーで医療活動をつづけている名知仁子氏を講師に招いてのセミナーが開かれたのは、折しも安倍首相がミャンマー訪問へと旅立ったその日。タイムリーな講座は、内科医であると同時に気功師でもある名知氏のかけ声で「気功」を体験することからスタートした。
 ストレッチで体をほぐし、「気」を感じたところで講義開始。まずは、なぜ名知氏がミャンマーで活動を始めたのか、どうして国際医療の分野に入って行ったのか、その軌跡を自身の口から語っていただいた。
「お医者さんっていうと勉強ができる。そういうイメージが強いようですが私は違います。」
 小中学校を通して「5」を取ったことは「中学1年の一学期だけ」。学級委員など一度もやったことがないし、理系だった高校時代は5、60人中36番といった成績。そんな名知氏が医師を目指したのは父親の入院がきっかけ。病院で患者のために働く医者の姿を目にし、一浪の末に獨協医科大学に入学した。卒業後は日本医科大学に入局。しかし待っていたのは「学校格差」に「白い巨塔のような派閥争い」、それに「女医さんお断り」という女医への蔑視だった。主任教授には入局早々、「女性は男性の3倍働いて一人前」と言われた。今となれば新人女医を慮っての励ましの言葉だと理解できるが、当時の自分には「大変なショック」。その中で女医として何ができるか、人間として自分の人生をどう生きていくか、学ぶ日々が始まった。そこで出会ったのはマザー・テレサの「もし、あなたの愛を誰かに与えたら、それは、あなたを豊かにする」という言葉。インドでのマザー・テレサの献身的な活動を知り、「国際医療がやりたい」と強く願った。英語を学び、周囲の反対を押し切って10年勤めた大学病院を退職。しかしその2週間後、名知氏は「副交感神経萎縮症」という難病に襲われ、4か月の入院と7か月のリハビリ生活を余儀なくされる。国際医療は健康でないと応募資格がない。どうにか病気を克服したあとは自分の体力が海外で通用するかどうか、放浪の旅に出た。その後、「国境なき医師団」での面接を経て登録に漕ぎ着け、最初の任地であるタイへと飛んだ。39歳のときだった。

「思いさえあれば、人間は何でもできる」

「初めての海外派遣で訪れたのはミャンマーからタイに逃げて来たカレン族の難民キャンプでした」
 そこで出会ったのは難民キャンプなど医師のいない環境でも傷病人へ適切なケアを提供できるよう、特別な教育とトレーニングを積んだカレン族の医療従事者だった。聞けば、彼は自分の誕生日も年齢も知らなかった。戸籍のないカレン族ではそれが当たり前。そればかりか、学校がないため多くの人たちは数字を読むこともできなかった。それでも彼は聴診器を頼りに、患者へ適切なケアを提供していた。
「思いさえあれば、人間は何でもできる。彼らはそれを私に教えてくれました。」
 その後も名知氏の活動はつづいた。イラク戦争時はヨルダンの医療現場に赴き、翌年には初めてミャンマーを訪れた。2008年、ミャンマーがサイクロンに襲われたときも現地へ行った。だが、45歳のとき、今度は乳癌に襲われ手術を受けることになる。そのときに思ったのは「日本とミャンマーとの医療格差」だった。日本にいる自分は国内で治療が受けられるが、ミャンマーでは乳癌などにかかり、高度な医療を要する場合は隣国のタイに行って入院せねばならない。へき地の村々が必要とする、基本的な医療ケアにおいても、短期的な現場治療だけではなく、恒常的に診療できるクリニックをミャンマーにつくろう。そう思ったのがこのとき。そこでまずは現地での移動クリニックに従事。4年間の準備期間を経て、昨年6月に特定非営利活動法人(NPO法人)「ミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会(MFCG)」を設立した。
「『MFCG』が提供するのは、クリニックと菜園、保健衛生教育の3つです。ミャンマーでは乳幼児の場合、栄養失調とマラリアが死亡の第一原因。これを改善するためには自立循環型の援助を行なうことが大切なのです。」

「子どもが目の前で亡くなっていく」、ミャンマーのデルタ地帯の現実

 セミナー後半では現地の人々がどんな暮らしを送っているのか、活動の場であるミャンマー南部のデルタ地帯の状況を写真で解説していただいた。紹介されたのは、池の水を汲んで飲み、野菜不足で栄養失調になりやすいカレン族の人々の姿だった。ミャンマーは人口約5,000万人。ヤンゴンのような大都市はまだしも、地方はインフラが整っておらず衛生環境もよくない。トイレは「青空トイレ」。物資不足で石鹸や薬も行き届いていない。学校はあっても生活苦で子どもたちはドロップアウトしてゆく。海外からの援助でトイレや井戸が造られても、使い方が分からずほんど使用されていないか、メンテナンスの仕方も十分でないため、故障して放置されることも珍しくない。与えるだけの援助は人々の生活に根付かず、結局、その場しのぎにしかならない。医療は助産師1人が10もの村を受け持っているような状態。国連の専門機関の統計によると、1歳までの乳児の死亡率は1,000人あたり77人。5歳までの死亡率は1,000人あたり55人だという。
「子どもがマラリアにかかっても貧しくて薬を買ってあげられない。目の前であっという間に子どもが亡くなっていくのです。」
 野菜を栽培しても、それは生活のための売り物。目の前にビタミンがあるのに人々は栄養失調で倒れる。この現実を変えるには医療だけではなく「菜園」が必要なのではないか。
 医師として、「人間には、生まれる、生きる、死ぬ、時間、という4つの平等が与えられている」と名知氏は考えている。その平等を現地の人にも享受してほしい。実際の国際医療の現場では「98パーセントが辛い」という。だが「残りの2パーセント」は「すごく楽しい」。「楽しい」のは「人との出会い」だ。貧しくても明るいミャンマーの人々とのふれあい、志をともにする仲間や他団体との活動や交流。そうしたものが名知氏の原動力となっている。
 「MFCGは現在、ミャンマーでのNGO登録を目指し現地当局に申請中。今年から現地での本格的活動を開始する予定。名知氏の夢はこの活動を広げ、「多くの人が笑って生きていける明るい社会をつくる」ことだ。
 人生をたとえると、「デコレーションケーキとかすみ草」。人生というケーキには何をデコレーションしてもいい。タイミングに合わせて自分を変えてゆけばいい。そして人というものは、いつ芽が出るかわからない。
「人生に無駄なことはない。誰だって好奇心を持ってアンテナを広げていれば楽しく生きていけるはずです。」
「MFCG」の活動は始まったばかり。しかし、名知氏のエネルギー溢れる行動が「菜園と医療の自立循環型支援」を成功に導く日も近いだろう。

講師紹介

名知 仁子(なち さとこ)
名知 仁子(なち さとこ)
特定非営利活動法人ミャンマーファミリークリニックと菜園の会代表
1963年新潟生まれ。1988年獨協医科大学卒業第10期生。1989年日本医科大学第一内科医局入局。1994年マザーテレサの本にあった「もしあなたの愛を誰かに与えられたらそれはあなたを豊かにする」という一節に感銘を受けると同時に、さまざまな問題に疑問を感じ、国際医療を志す。2002年国境なき医師団の登録を経て、海外医療援助活動に初参加。2008年医療の恩恵を受けられないままミャンマーの暮らす人々のために医療クリニックと菜園をつくり、自立循環型の援助を提供できるよう単独で任意団体「ミャンマークリニック菜園開設基金」を設立。2012年「ミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会」が特定非営利活動法人として認定を受け、正式に発足。団体代表として就任し、現在に至る。