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イベントレポート

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2013年6月3日(月) 19:00~21:00

加藤 久(カトウ ヒサシ) / 元サッカー日本代表主将

キャリアトランジション勉強会 6

人生の分岐点に
~現実とどう向き合うか、考え方の重要性~
夢は大切、現実から目をそむけないことも大切。
あなたならどうしますか?準備はできてますか?


「人生の転機をどう乗り越えるか」というテーマを、アスリートの競技引退を軸に考える勉強会。メンタルトレーナーの田中ウルヴェ京氏と元Jリーガーの重野弘三郎氏がゲストを迎えお届けします。今回のゲストは元サッカー日本代表主将の加藤久氏。サッカー選手・監督としてさまざまな節目を振り返りながら、その時々の悩みのプロセス、心理葛藤、決断の背景などを語っていただきます。

出身は「サッカー不毛の地」。「恵まれていなかったことが恵まれていた」

 d-laboでは6回目の開催となる『キャリアトランジション勉強会』。今回も田中ウルヴェ京氏と重野弘三郎氏を進行役として「人生の分岐点」について考える有意義なセミナーとなった。ゲストは元サッカー日本代表主将である「キュウさん」こと加藤久氏。「1980年代の日本サッカーを代表する選手であり、Jリーグ発足後もヴェルディ川崎や清水エスパルスでプレー、1993年には現役選手でありながら日本サッカー協会の強化委員会の副委員長となり、引退後はヴェルディ川崎、湘南ベルマーレの監督など指導者として活躍。その一方で東工大大学院では社会理工学研究家の博士号を取得する」といった経歴は同じ元Jリーガーの重野氏から見ても「雲の上の人」だ。セミナーではその加藤氏が提出してくれた「人生の山谷を示すライフライン」を公開。加藤氏が自分の人生をどう捉えて生きてきたのかを聞いてみた。
 0歳から現在に至るまでの人生の振幅をグラフ状にして表わすこの図。加藤氏が引いてくれた線は、「これ何ですか?」と田中氏が首を捻るほど特徴的なもの。普通の人だと引かれる線は1本だけだが、加藤氏の図は年齢を示す横軸を挟んで上下に2本。加藤氏によると「上がプラスで下がマイナス」。人間にはいいこともあれば悪いことも起きる。二本の線は、それを表わしたものだという。
「死ぬときに、いろいろあったけど俺の人生はよかったなって思えれば、マイナスの線は消えるんじゃないですか。」
 加藤氏は1956年生まれ。出身地の宮城県は専門誌に「サッカー不毛の地」と評されるほどサッカーをするには向いていない環境だった。サッカーボールも専門の指導者もろくにいない小中学生時代、加藤氏は1人でボールを蹴って練習に励んだ。いま思えば「恵まれていなかったことが恵まれていた」。環境が整っていないから、すべて自分でやるしかない。それを習慣化できたことが、その後の選手としての躍進につながったという。

起こったことを拒否するのではなく受け入れる

 話し振りが穏やかな加藤氏は一見するとポジティブ志向には見えない。が、田中氏に言わせれば「すごく建設的で肯定的」。「その姿勢はどこから出てくるのですか」という質問に、加藤氏は「先天的なものではなく後天的なもの」と答える。
「人間は物事の解釈の仕方や捉え方を後天的に学ぶことが多い。性格と呼ばれるものはそれがパターン化したものなのです。」
 人が経験の中で学ぶもののなかには「感情のリカバリー」といったものがある。サッカー選手の場合、とくにこの点は重要だ。
「よく一流の選手は不安やプレッシャーを超越していると言われるけれど、そんなことはない。でもある瞬間、やるしかねえ!って振り切れるんですよ。試合のとき、心は内向きに使わない。外向きに使わないといけません。」
 震災後の復興支援で被災地を加藤氏と一緒にまわっている重野氏。驚くのは「キュウさんの誰と会っても変わらないスタンス」だという。安定した居住まいは現役時代の「ディフェンスの真ん中というポジションも関係しているのでは」と考察。もちろん、生きていれば「嫌なこともたくさん経験」する。「安定」して見えるのは、それを自分の中でうまく受けとめることができるからだ。
「認知行動療法で言うならアクセプタンス。起こったことを拒否するのではなく受け入れる。それだけでも気持ちの安定とか幸福感は得られると思うのです。」
 キャリアトランジションの視点で見ても、このアクセプタンスは重要なキーワードだ。サッカー選手の中で「自分の意志でやめる」ことができるのはごく一握りのスター選手くらい。大半の選手は「戦力外」通告を受けて現役を退かねばならない。重野氏もそうした1人だし、加藤氏も指導者時代は同じ思いを経験している。サッカー選手のように試合で感じる高揚感が高ければ高いほど、その後の人生とのギャップは激しい。いつかはこの日がくるとわかっていても準備ができていない人間がほとんど。セミナー後半では、セカンドキャリアを構築するためにどんな心構えが必要か、そこに的を絞ったディスカッションが繰り広げられた。

「自分は中山じゃない」とわかった上でサッカーをやる

「高校出たてでプロになった選手はただ嬉しいだけ。厳しい世界だということをまわりの大人たちが教えなくては」
 会場の参加者からも「スターだった選手は何もしなくてもテレビの仕事がきたりするけれど、底辺の選手はどうすればいいのですか」と質問が寄せられる。加藤氏の答えは「俺はゴン中山じゃない、とわかった上でサッカーをやるしかない」。引退を迫られたとき、いかにセルフコントロールができるか。普通は現実と向き合えずにもがくこととなる。重野氏も「はい次、という自分と、これでやめるのかという自分が半年ほど鬩ぎあった」と語る。だが、そうして溺れそうになってつかんだ藁が素晴らしい金の藁でないとも限らない。そのためにも「必死でもがくこと」が大事だ。
 田中氏も「元メダリストの肩書では生きていけないと悟ったから、ゼロからやり直して英語と心理学を勉強した」という。
 スポーツの世界に限らず、解雇や人事といったのものはその当事者には理不尽と感じることが多い。ここで大切なのは加藤氏のように「そういうものなのだ」と受けとめることだ。負の感情が出て来たら「もぐらたたきのように」それを叩いて引っ込める。そして気持ちを楽しいことに切り替える。
「怒りや嫉妬はお釈迦様でも消せなかった感情です。でも叩いて引っ込めることはできる。それを積み重ねていくうちにセルフコントロールができるようになってくるんですよね。」
 勉強会の最後は3人の夢。「自分が関わって世の中をよくしていきたい」と重野氏。田中氏は「哲学的に考える自分と元アスリート的な自分を融合して新しいメンタルトレーニングのプログラムをつくりたい」。そして加藤氏の夢は3つ。
「ひとつは理事長をしている沖縄のヴィクサーレスポーツクラブに幼稚園と老人ホームを一緒にしたサッカー場付きの施設をつくること。もう1つはスポーツをやっている子たちに〈生きるとは何か〉といったことを教える場所を東京に設けたい。それと、スポーツ選手専用の学習教材をつくりたい。この3つが今の夢、とくに沖縄の子たちのために1つめの夢はぜひ実現したいですね。」
元トップアスリートたちが繰り広げた第6回目のキャリアトランジション。人生の岐路に立たされた時、私たちは何を思い、どのような判断を下すのか。その心構えを学ぶ有意義な2時間だった。

講師紹介

加藤 久(カトウ ヒサシ)
加藤 久(カトウ ヒサシ)
元サッカー日本代表主将
宮城県宮城郡利府町出身。1956年生まれ。仙台二高-早稲田大学-筑波大学大学院体育学研究科(修士課程)-東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程(Ph.D)。1980年以降、選手として読売クラブ(現東京ヴェルディ)、清水エスパルスで通算14シーズンプレー。JSL1部5回、天皇杯3回優勝。1981年から1992年までの11シーズンでベストイレブンに9回選出された。日本代表主将として、1980年代のオリンピック予選やFIFAワールドカップ(W杯)予選に出場。選手を続けながら大学院で修士を取得し、早稲田大学で教鞭もとった。2003年にはプロサッカー選手出身として初めて学術博士となった。大学教官時代の受講生の多くがプロ選手として活躍し、現在は監督やコーチとしてJリーグで活躍。また、1997年のヴェルディ川崎(当時)を皮切りに、湘南ベルマーレ、京都サンガF.C.といったJリーグクラブにて監督を歴任した。1991年以降は現役選手ながら日本サッカー協会の強化委員をつとめ、その後強化委員長を歴任、2011年の震災後は復興支援特任コーチとして宮城・岩手沿岸部を中心に被災地をたった一人で1年以上支援。これまで「少年サッカーの指導」、「サッカーのメンタルトレーニング」など著書多数。

田中 ウルヴェ 京 (タナカ ウルヴェ ミヤコ)
国立鹿屋体育大学客員教授。日本オリンピック委員会(JOC )情報医科学専門委員会科学サポート部会メンバー。東京都出身。聖心女子学院初・中・高等科を経て日本大学在学中にソウルオリンピックに出場。シンクロ・デュエットで銅メダルを獲得。引退後、6年半のアメリカ留学で、スポーツ心理学・キャリアプランニング、認知行動療法等を大学院にて学ぶ。アスリートとしての経験と大学院で学んだ知識を活かし、心と身体の健康をテーマに、ビジネスマンからアスリートまで幅広くメンタルトレーニング、企業研修を行っている。

重野 弘三郎 (シゲノ コウザブロウ)
元Jリーグ選手。神奈川県出身。滝川第二高校‐国立鹿屋体育大学‐国立鹿屋体育大学大学院修了。選手としてセレッソ大阪、富士通川崎(現 川崎フロンターレ)に所属。選手引退後は大学院へ進学し、「プロサッカー選手引退後のセカンドキャリア到達過程」について研究。2002年 Jリーグ事務局入局。同年発足したキャリアサポートセンターにて選手のキャリアサポートに携わり、現在は世界で活躍する選手を育成するアカデミーを担当。