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イベントレポート

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2013年6月4日(火) 19:00~21:00

青山 和夫(あおやま かずお) / 茨城大学人文学部教授

マヤ文明の実像に迫る

ジャングルにそびえ立つ神殿ピラミッド、広場に林立する石碑、交易に用いられた黒曜石...。マヤ文明は中米の密林に花ひらき、16世紀まで繁栄した究極の石器文明だった。マヤの支配層は、コロンブス以前のアメリカ大陸で文字、暦、算術、天文学を最も発達させた。もはやマヤ文明を謎と神秘のベールに包んで論じる時代ではない。マヤ文字は王の事績を語り、考古学は実際に生きていた貴族や農民の暮らしを具体的に明らかにする。そのマヤ文明の実像について、気鋭の考古学者・青山氏に最新の研究成果とともにお話しいただいた。

世界は「四大文明」ではなく「六大文明」だった

 日本では「謎の文明」と誤解されることが多い中米のマヤ文明。講師の青山和夫氏は28年に渡りそのマヤ文明の「実像」を発掘調査によって解明してきたこの分野の第一人者だ。マヤ文明といえばつい昨年も「マヤ暦」が話題となったばかり。今回のセミナーでは「世界は四大文明ではなく、マヤやアンデスを含めた六大文明だった」と語る青山氏に「マヤ文明について1から10まで」解説していただいだ。
 マヤ文明が栄えたのは紀元前1,000年頃からスペインの侵略を受ける16世紀まで。なぜ「世界六大文明」の1つに数えるか、その理由は簡単だ。マヤ文明は「旧大陸(アジア・ヨーロッパ・アフリカの3大陸)と交流することなく築き上げられた文明」だからだ。こうした「一次文明」は世界では6つしかない。アメリカ大陸はコロンブスが「発見」したわけではなく、そのときもマヤ文明やアンデス文明は栄えていた。狩猟採集民族だったモンゴロイドがアメリカ大陸に渡ったのはおよそ1万2,000年前。彼らが築いた文明は、コロンブスが訪れた1492年の時点ですでに100以上の栽培植物を持っていた。トマトもトウモロコシもジャガイモもタバコもピーナッツも、すべてアメリカ大陸原産。これが旧大陸にもたらされたことによって世界の食文化に革命が起きた。日本の風景の一部となっているコスモスも原産はアメリカ大陸。そう考えると遠い存在であったマヤ文明も身近に感じてくる。
 これまでは「謎」扱いされてきたマヤ文明。そこには偏った発掘による影響もあった。マヤ文明と聞いて人がイメージするのはピラミッドや天文学といったもの。実際の人々の暮らしについて調査が進んでいなかったがゆえに神秘的なイメージがついてしまったのだ。
「未来の人が東京を調査するにしても六本木だけ発掘したのでは東京の実像はつかめませんよね。それと同じことです。」

マヤ文明は「ものづくり」の文明

 青山氏は大学を卒業した23歳のときから、ユネスコ世界遺産のホンジュラスのコパン遺跡やその近隣のラ・エントラーダ地域の発掘調査に参加してきた。調査の空白地帯だったラ・エントラーダ地域では635の遺跡を踏査。「人類史上もっとも洗練された石器の都市文明」の実像を解明するべく複製石器を用いての使用実験を通して使用の痕跡の研究などを行なってきた。その間に文明が存在した2,500年の間の政治経済組織についても研究を進め、古代のコパン国家が「一部の実用品の交換を集権的に統御していた」事実を突き止めた。権力者の仕事は政治や宗教儀礼だけではなく経済活動にも及んでいた。このような調査研究を積み重ねていくことでマヤ文明を神秘的なイメージの世界から現実の歴史の中に組み込んできた。
「マヤ文明を一言で述べると、ものづくりの文明です。」
 文字や20進法、天文学、暦など、優れた文化と科学を持っていたマヤ文明。他文明と異なる点は巨大な統一国家が存在せず、それぞれの地域に都市国家が林立していた点だ。そこには神聖王が存在し、貴族や庶民がいた。王家や貴族など地位の高い人間と庶民との違いを示すものは美術品の「手工業生産」。他文明では「ものづくり」は身分の低い職人の仕事。だがマヤ文明では石碑の彫刻や装飾品の製作は支配層が自ら行なっていた。グアテマラのアグアテカ遺跡の発掘ではその証拠が多数発見された。支配層は「ものづくり」をする工芸家としてだけなく、神官や書記、天文学者としても活躍したし、他国家との戦争では戦士となって戦った。
「そういう意味で支配層はマルチタレント的な存在。普通の農民たちにはできないことをやって自分たちの権力を強化していたのです。」
 貴族の住居跡の発掘からは興味深い発見がいくつもあった。女性が使っていたとおぼしき部屋からは調理や織物に使う道具が見つかった。土器は1つの住居から60~70個出て来る。「発掘も大変だけどそのあとの分析も大変です。」と青山氏は笑う。しかし、こうした地道な作業が成果をもたらす。青山氏がこれまでに英語やスペイン語で書いた論文は約150。これらは重要な資料として各国の大学のマヤ文明の教科書などで引用されている。
 都市の周辺には農民が暮らした家もある。質素な家は見つけにくいが、そこに人骨があれば住居だとわかる。なぜかといえば、「マヤ人は住居の下を掘って先祖を埋めた」からだ。家族が死ぬと床下に埋めるのが慣わし。
「マヤ人は先祖と生きていた。死はそんなにこわいものではなかったのかもしれません」

大神殿ピラミッドは「マヤ文明の黄昏時の始まり」を象徴

 コパン、アグアテカとつづいた青山氏の研究。グアテマラのセイバル遺跡では「マヤ王権の起源を追い求めた」という。そこでわかったのは神殿ピラミッドに代表される巨大な公共祭祀建築やそれが建つ公共広場は同じ場所に増改築を繰り返してきたという事実、そして、そうした施設は「従来の学説より少なくとも200年ほど早く造られていた」ということだ。時の王は神殿を巨大化することで権威を高め、祭祀を行ない君臨した。それが約2,500年つづいたのがマヤ文明だ。
 ではそのマヤ文明の起源は。これまでの説では隣接するオルメカ文明の「一方的な影響によって生まれた」か、でなければ「独自に興った」というものだったが、これは違う。
「マヤの人たちは地域間ネットワークに参加して物資や知識、観念体系を取捨選択しながら交換しあい、文明を築き上げていった。それが本当のところだと考えられます。」
 マヤ文明はよく崩壊したとも言われる。これも間違いだ。古典期末期の9世紀にはマヤ低地南部の都市文明が衰退したが、他方、北部の諸都市は繁栄していたのだ。衰退と繁栄は背中合わせ。都市が繁栄し過ぎて人口が増加すると、それにともない農地が疲弊し食料不足となる。実はマヤ文明の象徴である大神殿ピラミッドはこの古典期末に造られたものが多い。国が傾いてゆく中、王たちは「神々の助けを請う」ために人々を使役し国家をますます苦境に追い込んだ。青山氏は「大神殿ピラミッドはマヤ文明の黄昏時の始まりを象徴したもの」と見ている。
 青山氏の夢は「マヤ文明をもっと日本に広めること」。マヤ文明の盛衰は「文明とは何か」という問題を現代人に投げかけている。「大惨事を避けるためにいかにバイアスを認識し超克するか。そしていかに新しいオプションを探求するか。最先端の研究の成果を社会に還元する。それが文明の抱える問題を解決するささやかな糸口になればと願っています。」文明の繁栄と衰退。これは現代に生きる私たちにとっての教訓なのであろう。

講師紹介

青山 和夫(あおやま かずお)
青山 和夫(あおやま かずお)
茨城大学人文学部教授
1962年京都市生まれ。東北大学文学部卒業。ピッツバーグ大学人類学部大学院博士課程修了。人類学博士、マヤ文明学、メソアメリカ考古学、文化人類学専攻。1986年以来、ホンジュラスのラ・エントラーダ地域、コパン遺跡、グアテマラのアグアテカ遺跡、セイバル遺跡などでマヤ文明の調査に参加。日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞を受賞。主な著書に『マヤ文明』(岩波新書)、『“謎の文明”マヤの実像にせまる』(NHK出版)、『古代メソアメリカ文明』(講談社)、『古代マヤ』(京都大学学術出版会)、『メソアメリカの考古学』(共著.同成社)、『古代アメリカ文明』(共著.山川出版社)、『岩波アメリカ大陸古代文明事典』(共編著,岩波書店)、訳書に『新しい考古学と古代マヤ文明』(新評論)、『マヤ文明の興亡』(新評論)などがある。