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イベントレポート

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2013年10月31日(木)19:00~21:00

釜本 美佐子(かまもと みさこ) / 日本ブラインドサッカー協会理事長

ブラインドサッカーが描く未来

アイマスクを装着して音の鳴るボールを蹴り、ゴールを奪い合う視覚障害者のためのサッカー「ブラインドサッカー」。目隠しでサッカーと聞くと、「プレー内容もそこそこだろう」と思われる方がほとんどだと思いますが、実はその「スピード」「テクニック」「パワー」は通常のサッカーに引けを取らないほどです。2002年より日本での普及が始まり、パラリンピックの正式種目となりました。その普及の最前線に立ち続けた、日本ブラインドサッカー協会理事長の釜本美佐子氏にブラインドサッカーの魅力、そしてこれまでの普及活動と今後の展望についてお話しいただきました。

世界を旅したツアーコンダクター時代

講師の釜本美佐子氏は元サッカー日本代表の釜本邦茂氏の姉。セミナーは「実は弟にサッカーを勧めたのは私なんです」という家族ならではの逸話から始まった。
「その頃の私は高校生で弟は小学生でした。つい昨日のことのように覚えていますが、気が付いたら50年以上が過ぎてしまいました」
50数年の間にはさまざまなことがあった。邦茂氏はサッカー選手となりメキシコ五輪で銅メダルに輝き、その後も指導者として活躍した。姉の美佐子氏は大学では英語を専攻。卒業後はJTBのツアーコンダクター1期生となって海外を旅してきた。旅行業界で仕事を始めた1960年代は、1ドルがまだ360円だった時代。ツアー参加者の中には出発前に「遺言書」を残してくるような人もいたという。1966年にプライベートで初めてヨーロッパに旅行したときは「南回りの各駅停車」。たとえばイタリアに行くとしても直行便などなく、羽田を発った飛行機は、マニラ、バンコク、ニューデリー、テヘラン、アテネと経由し、24時間かけてローマへと向かったという。 セミナーの前半ではこうしたツアーコンダクターとしての体験談を「今昔物語」風に自ら紹介。置き引きやひったくりといったトラブル、当時のホテル事情や両替事情、英語の話せない日本人のツアー参加者が「窮すれば通ず」でひねり出したユニークな英語についてなど、今だから笑えるといったネタが次々に披露された。そうやって1970年代から1980年代にかけての約20年間、釜本氏が添乗したツアーは約300回、訪れた国は140か国にも及ぶという。
「当時の視力は1.5くらい。ケニアやタンザニアでサファリに参加しても、はるか地平線にいるキリンを見つけてお客さんに教えていたくらいでした」

ブラインドサッカーとの出会い

その釜本氏が目に痛みを感じたのは「今から17、8年前のこと」だった。医師のもとを訪ねてみると遺伝子異常からくる「網膜色素変性症」だと診断された。この病気を発症すると視野狭窄が始まり、やがては失明に至る。
「そのときはまだよく見えていたから、まさかと思いました」
複数の医師に診てもらったが、診断結果はいずれも同じだった。視覚障害者のボランティア活動をしている人からは「視覚障害というのは、行動の不自由と情報の不自由なんです」と教えられた。ここで言う「情報」はテレビや新聞、本などのメディアだけではなく、目に入るすべての「情報」を意味する。
「目が見えないと、そこに階段があってもわからない。本当に不自由なんです」
自宅の近所ならまだしも、視覚障害者が外出するには手を引いてくれる人が必要になる。まして見知らぬ土地への旅行となればなおさらだ。そこで釜本氏は1996年に各地でボランティア活動している団体をインターネットで結ぶ「全国視覚障害者外出支援連絡会(JBOS)」を設立。「いつでもどこでも、出かけたいときに出かけたいところへ」をコンセプトに、今日まで仲間とともに活動をつづけてきた。
ブラインドサッカーとの出会いは2001年。ある人から「2004年のアテネのパラリンピックから正式種目になる」と聞かされ、「協会の会長になってほしい」と頼まれた。
「当時はまだ目も見えていましたし、それならということですでにブラインドサッカーが普及していた韓国に視察に行ったんです」
全盲のB1クラスの試合を観戦して驚いた。
「まずびっくりしたのは、目のまったく見えない人が走り回っていることでした。それもすごいスピードで、ちゃんとサッカーをやっているんです」
5人制で、ゴールキーパーは晴眼者。他のフィールドプレーヤーは全員アイマスクをしてプレーに臨む。ピッチの広さは「フットサルくらい」。もちろん、全盲の人がプレーできるようにルールには工夫が加えられている。ボールは転がすと「シャカシャカ」と音が鳴るようにつくられているし、ピッチの左右両サイドにはサイドフェンスが設けられ、そこにボールが当たってはねかえってもプレーが続行できる。選手同士の衝突を防ぐために、選手にはボールを取りに行くときは「ボイ!」と声を出すことが義務づけられている。声で指示を出す晴眼者は監督とゴールキーパーとコーラーの3人。監督はピッチ中央、ゴールキーパーはディフェンスエリア、コーラーはオフェンスエリアと、ピッチを3分割して選手にゴールの位置を教えたりする。
「こうしたルールはおそらく何十年もかけてスペインやブラジルなどで改良を積み重ねてきたものだと思います」

目標は2024年パラリンピックでの金メダル

そして2002年、釜本氏を理事長に日本視覚障害者サッカー協会(現、日本ブラインドサッカー協会)が発足する。初の日本選手権開催は2002年。2005年には、第1回目のアジア選手権でベトナムと韓国を破って優勝。だが「世界の壁は厚い」という。出場を目指した北京パラリンピックは予選のアジア選手権で敗退。ロンドンパラリンピックの予選でも「あと10分耐えれば」といったところでイランに敗北した。
ブラインドサッカーの世界でもやはりブラジルやアルゼンチンといった国々は「非常にレベルが高くて強い」。一方で日本も「だいぶ追いついてきた気がする」と釜本氏。
「来年の世界選手権は日本で開催の予定です。ここで勝って、なんとか2016年のリオのパラリンピックにつなげたいと思います」
モニターに映っているのはブラインドサッカーの映像や画像。釜本氏の言葉通り、全盲の選手たちがボールを追って走り回っている姿は普通のサッカーとなんら変わりがない。選手はそこで、仲間の声を頼りに自分で考え、自分で判断してボールを奪ったり蹴ったりする。ある選手は「ピッチには自由がある」と語る。生活する上で制約の多い視覚障害者にとってブラインドサッカーは自由になれる貴重な「場」だ。
釜本氏の「夢」はサッカーについていえば「2024年のパラリンピックで金メダルを獲ること」。個人としては「耳だけで中国語を学んで話せるようになりたい」。そしていつかは iPS細胞で網膜を再生できればと願っている。
「語学とサッカーは私にとってはなくてはならないもの。視力は1年ほど前に完全に失いましたが、この歳になってもまだサッカーがわたしに居場所を与えてくれている。サッカーには本当に感謝しています」
東京で開催されることが決まった2020年のパラリンピック。ピッチで躍動する選手たちの姿を見るのがいまから楽しみだ。

講師紹介

釜本 美佐子(かまもと みさこ)
釜本 美佐子(かまもと みさこ)
日本ブラインドサッカー協会理事長
1940年京都市生まれ。日本交通公社ルック部コンダクター第一期生として海外添乗を担当。その後、釜本・エンタープライズを設立して独立。1993年に自身が網膜色素変性症を患い、全国視覚障害者外出支援連絡会会長、網膜色素変性症協会会長などを歴任。2001年に視覚障害者サッカーを導入するため韓国へわたり、2002年日本視覚障害者サッカー協会(現、日本ブラインドサッカー協会)を設立し、理事長就任。