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イベントレポート

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2014年1月30日(木)19:00~21:00 

藤間 蘭黄 (ふじま らんこう)  / 日本舞踊家

日本舞踊鑑賞への誘い

日本舞踊は"着物を着てゆっくりと踊る退屈なもの"というイメージを持っていないだろうか?しかし実際に見てみるとそのイメージとは全く異なり、バレエやダンスに勝るとも劣らない華やかな舞台芸術なのだ。さまざまな日本の伝統文化のエッセンスが、洗練された形で含まれている日本舞踊。その見どころを、第一線で活躍する日本舞踊家藤間蘭黄氏に実演も交えて、わかりやすくご紹介いただいた。

日本舞踊の始まりは歌舞伎から

講師の藤間蘭黄氏は江戸時代から続く藤間流の日本舞踊家。このセミナーでは実演者の立場から、日本舞踊の楽しみ方についてお話していただいた。
日本舞踊とは、文字通り「日本の踊り」。祭りの神楽や盆踊りなどが参加型なのに対し、「舞台と客席が隔絶されているのが特徴」だ。
「口憚ったい言い方ですけれど、日本舞踊はバレエやコンテンポラリーダンスと同じ舞台芸術です。自らが楽しんで踊るだけではない。そこには必ず見てくださるお客さまがいます」
そのルーツは歌舞伎。日本舞踊の歴史を知りたければ歌舞伎の歴史を辿るといい。歌舞伎の前身は、江戸時代初期の1600年代、出雲阿国(いずものおくに)を座長とする一座が始めた「かぶき踊り」だ。当時最先端の楽器だった三味線を使った「かぶき踊り」は民衆の間で評判となったが、当時の芸能集団にはありがちなことに売春とセットになっていたため、「風紀を乱す」と禁じられてしまう。その後、紆余曲折を経て生まれたのが成人男子のみに許された芝居である「歌舞伎」だった。やがて女形など現在も見られる歌舞伎の型や演出が編み出されてゆく。単独での公演を禁じられていた「踊り」は、この芝居の中で場面のひとつを構成する劇中舞踊として扱われ、次第に独立して単独の舞踊演目が踊られるようになる。そしてこれが1800年代を迎えると、振付家が「師匠」となって町の人々に踊りを教えるようになる。「習い事」としての日本舞踊の誕生だ。
ちなみに、「日本舞踊」という名称ができたのは明治時代になってから。
「明治に入り、海外からダンスという言葉が入ってきました。これを日本語に訳してできたのが『舞踊』という言葉なんです」
昔から日本には、能の仕舞や上方舞などのように地面を旋回する「舞」と、縦の運動を見せる「踊り」があった。この2つを組み合わせた造語が「舞踊」だという。

観客の想像力があって初めて成立する

歌舞伎舞踊から誕生した日本舞踊。その大きな特徴は上演方法である。歌舞伎舞踊を上演する場合は、歌舞伎同様に化粧をしたり衣裳を着たりすることもあるが、それに加えて、日本舞踊には、何も味付けしない「素踊り」という上演方法がある。男性なら紋付袴、女性なら裾模様の着物にかつらを被って白粉をつけるが、これも明治時代の一般女性の姿を表す。こうした扮装前の「素」の状態で舞台に立つのが素踊り。特定の役の格好をしているわけではないから、1人で何役もの役をこなすことができる。男女が絡むドラマも1人で表現可能。世界にはどの国に行ってもその国の踊りがあるが、こんなふうに1人の踊り手が男になったり女になったりする舞踊は極めて珍しい。しかも日本舞踊は「振り=パントマイム」によって日常の動作や、山や木、波の動きといった自然までをも表現するし、歌詞もまた「当て振り」という動きで表わしてみせる。
「同じ波でも、海の波なら大きな波が寄せて、小さく戻ってゆく。川の波なら一方通行。こうした動きは同じ文化を共有する日本人のみなさんならだいたいわかってもらえます」
日本舞踊は「お客さまの想像力があって初めて成立するもの」。その想像力を補ってくれる小道具の一つが「舞扇」だ。世界中で見られる扇子は実は日本が発祥地。フラメンコなどのように扇子を使った踊りは少なくないが、日本舞踊の場合は扇子が扇子として使われるだけでなく、扇子によってさまざまな物が表現されている。逆さにすれば「山」となり、頭に当てれば「笠」となる。「おちょこ」にもなるし「キセル」にもなる。「巻紙」や「弓矢」を表現することもできる。扇子を色々なものに「見立て」るのである。あるものを用いて別の意味を表すという「見立て」は日本舞踊だけでなく、「茶の湯」や「和歌」などでも用いられる日本文化に共通のキーワード。「見立て」を用いれば扇子がなくても表現できる。手で花を表わしたり、目線で物の動きを示したり、足拍子で人物の状態を見せたりすることもできる。もちろん、観客にそうとわかってもらうには相応の技術が必要となる。日本舞踊は豊かな表現が可能な一方、衣装や舞台装置といった助けがないシビアな芸能でもあるのだ。
セミナー前半のラストは講師自らの実演。天上界の長屋での雷の夫婦喧嘩を描いた『流星』、恋を成就することなく世を去った娘の想いを踊りに託した『鷺娘』。前者は1人4役の賑やかなもの。後者はしっとりとした女形の踊り。共に抜粋であるが、近くで舞踊家の踊りが見られる機会はそうはないだけに、参加者にとっては貴重な時間となった。

「当て振り」は駄洒落の世界

 後半は三味線音楽のジャンル分けから。三味線音楽は「大きく分けて2つ」。ひとつは物語を語る「語り物」。もうひとつは情景や風景をきれいに歌い上げる唄物だ。義太夫や常磐津、清元などは浄瑠璃と総称される「語り物」であり、『流星』は清元。長唄や小唄は「唄物」で、『鷺娘』は長唄だ。浄瑠璃でも唄でも曲の歌詞は「当て振り」によって表現されることがある。
「当て振り」とは、簡単に言うと「駄洒落のようなもの」だ。歌詞にある言葉を、必ずしも筋書きとは関係のない、同音の、もっと踊りの動きで表現しやすい他の言葉に当てはめて伝える。18世紀に初演された『関の扉』という歌舞伎舞踊劇では「生野暮薄鈍(きやぼうすどん)」というくだりが有名である。最初の「きやぼ」という歌詞では、木・矢・棒を両手で表し、続く「薄鈍(うすどん)」は臼に戸をたたく音でドン。この最たるものの一つが清元の『傀儡師』。ここで歌われる「お七と吉三」の恋模様は、お七が八百屋の娘だったことから、歌詞そのものまでが八百屋で売る品物の名を掛けあわせた駄洒落となっている。「夫婦(めおと)になろう」は「芽独活に奈良漬け」、「こませた」は「胡麻せた」、「起請文」が「生生姜」といった具合にだ。こうした「駄洒落」を、舞踊家はコミカルな「当て振り」で踊ってみせるのである。
「古典芸能というと、つい襟を正して見なきゃといった感じになるんですけど、実は全然そんなことはなくて駄洒落の世界もあります。触れていただければ、馬鹿馬鹿しくておもしろいものだとわかっていただけるはずです」
 後半も最後は実演。ここでは明治末期に新しい邦楽の流派として誕生した「東明流」の『都鳥』を披露。平岡吟舟によってつくられたこの流派は、それまでの三味線音楽の「いいとこどり」をしたもの。『都鳥』は明治に生きる主人公が江戸時代の隅田川周辺の風物を懐かしく振り返るといった内容の曲だ。
「この『都鳥』のように、古典芸能の楽しみは、瞬時にしてその舞台となっている時代にタイムスリップできるところなんです」
 そこでいちばん大切となるのが想像力。踊りを見て場面を構築する力は誰でも持っているし、見れば見るほどそれは養われるはずだ。
 藤間氏の「夢」は、今よりももっと大勢の人に日本舞踊を鑑賞してもらうこと。
「バレエやオペラに足を運ぶように、日本舞踊を観に行こうと、みなさんが誘い合ってくださるようになればいいと思っています」

講師紹介

藤間 蘭黄 (ふじま らんこう) 
藤間 蘭黄 (ふじま らんこう) 
日本舞踊家
東京生まれ。人間国宝である祖母・藤間藤子と、母・藤間蘭景の下で修業する。1968年、第20回「紫紅会」にて初舞台。1978年、4代目家元藤間勘右衞門より「藤間蘭黄」の名を許される。近年では、アメリカ、ヨーロッパ、アジア、中東など国内外の舞踊公演やテレビ出演を精力的にこなすかたわら、大河ドラマ「利家とまつ」、「JIN‐仁‐」など、時代劇の所作指導にも手腕を発揮。国内外の舞踊コンクールの審査員も務める。文化庁芸術祭新人賞、花柳壽應賞新人賞、舞踊批評家協会新人賞、松尾芸能賞新人賞を受賞。