スルガ銀行 Dバンク支店

SURUGA d-labo. Bring your dream to reality. Draw my dream.

イベントレポート

イベントレポートTOP

2014年4月8日(火) 19:00~21:00

本郷 和人(ほんごう かずと) / 東京大学史料編纂所教授

中世日本の「国のかたち」

私たちは、日本という国が「単一の言語」を用いる、「単一の民族」によって構成される、「単一の国家」であったと学習してきた。しかし、それは本当なのだろうか。戦国時代の武田や上杉などの大名家を考えてみると、独自の法を整備し(分国法)、軍事力による安全保障を行っている。それ故に各家が各地域における小さな王様であり、それぞれの地域が小さな国であったとも考えられないだろうか。そこから発想すると、本当に日本が一つの国としてまとまったのは豊臣秀吉の全国統一以後であって、それまでの日本列島にはいくつかの国が並立していたと考えられる。今回のセミナーでは中世日本のスペシャリストである本郷和人氏をお招きし、その様な観点から中世日本の「国のかたち」、そこから「東と西、さらには北」という地域から成り立つ「日本のすがた」を明らかにし、その上で現代の地方分権についてお話しいただいた。

日本の歴史は「世界モデル」

最近は人気アイドルグループ『AKB48』の評論でも著名な本郷和人氏。
「いつの間にかそういう肩書をいただいているのですが、本当の職業は東京大学の史料編纂所の教員です」
東京大学の「大日本史料編纂」といえば、江戸時代に大学者の塙保己一が始め、その後は明治天皇の詔勅によって東京大学に引き継がれた由緒ある事業。その目的は日本の歴史を編纂することであり、本郷氏によれば「1冊の編纂書にまとめることができる歴史は約4か月分。一年分の歴史をまとめようとすると3冊ぐらいになる。しかも編纂書1冊を作るのに3年はかかる」という。
本郷氏の担当は12に分割された日本の歴史の第5編。時代でいうと鎌倉時代の建長年間を編纂している。
「僕は30歳で所員となって、60歳で退官の予定です。建長年間の1年分をまとめるのに9年か10年かかるわけですから、研究者としての僕の人生は建長元年から建長3年で終わることになりますね」
この計算でいくと「大日本史料の編纂が終わるまでに800年かかる」ことになる。日本の歴史は「極めて豊かで、かつ多様で長い」。しかも世界でも「断トツ」に歴史史料が残っている。だから、その歴史を編纂するには時間がかかる。なぜ歴史史料が残っているかといえば、「異民族の襲来を受けなかった」から。お隣の中国には日本の倍の歴史があるが、異民族の襲撃によって王朝が変わるたびに史料が焼かれてきた。その点、日本の場合は元寇や豊臣秀吉の朝鮮出兵を除けばほとんど外国と戦争をすることはなく、大虐殺といえるようなことも、織田信長による比叡山焼き討ちや伊勢長島の一向一揆に対するものくらいしかない。ほとんどの時代を通して、人々は戦いを好まず、食料も国内でまかなってきた。こうした日本の歴史は、「人間が適度な条件のもとで成長していくとどうなるか」という点で「世界モデル」になり得るという。

「権門体制論」と「東国国家論」

本セミナーのテーマは「中世日本の国のかたち」。この「かたち」を捉えるには大きくふたつの流れがあるという。一方は「日本はひとつであった」という「権門体制論(けんもんたいせいろん)」。これは日本の首都を京都とし、国家は天皇を中心としてひとつにまとまっていたという考え方だ。それを支えたのが「貴族=公家」と「武士=武家」と神官を含む「僧侶=寺家」。公家は行政を担当し、武家は治安維持につとめる。宗教的な役割は寺家が果たす。これら有力な家は世襲制が基本。こうした「権門体制論」が完成したのは1970 年代。この学説は黒田俊雄氏など、おもに京都、大阪方面の歴史学者が主張している。これに対し、「ちょっと待ってくれ」と意義を突きつけたのが「東国国家論(とうごくこっかろん)」だ。これは簡単に言えば「中世の日本はひとつではなかった」という考え方。例えば鎌倉時代を見るなら、東には鎌倉の武家政権があり、西の京都には天皇や貴族のいる朝廷があった。つまり、東と西にそれぞれ王権があったという考え方だ。本郷氏はさらに東北に注目。この時代、奥州には藤原氏がいて平泉文化を花咲かせていた。当時の日本で金を産出できたのは東北のみ。良質な馬を飼育できたのも東北だった。藤原氏はその財で琉球や東アジアと交易をしている。考え方次第では東北にもひとつの王権があったと見なすことができる。
「日本の中世学会にはこうしたふたつの見方がある。そのなかで僕たち東大系の研究者は『東国国家論』を主張しているのですが、どちらが一般的かというと『権門体制論』なんですね」
「権門体制論」と「東国国家論」のどちらが正しいのか。これを議論するとき、必ず出てくるのが「将軍よりも天皇の方が上」という考え方だ。
「東国国家論を主張したい僕たちとしては、これを論破しなければならないわけです」
そこで本郷氏が採用したのがドイツ語で言う「ゾレン=べき論」と「ザイン=である論」。この世の中には「何々はこうであるべき」だが「実際にはこうである」といったものが少なくない。歴史の認識もまたこの「ゾレン」と「ザイン」に分けて考えるべきはないか。一般的な常識として、格としての天皇は確かに将軍より上。その証拠に天皇が征夷大将軍を任命することはあってもその逆はない。しかし実際はどうだろう。鎌倉時代、幕府は後堀河天皇、後嵯峨天皇という二人の天皇をその力で即位させている。ここでは明らかに「ゾレン」を「ザイン」が凌駕している。

日本はいつひとつにまとまったのか

それでは、いったい日本という国家はいつひとつにまとまったのだろうか。そのひとつの基準となるのが中央集権体制だ。朝廷よりも力の強かった鎌倉幕府。あるいはその後の室町幕府を見ても、実のところ全国津々浦々までにその力を及ぼすことはできなかった。どこかで領地を巡る紛争があったとしても、できるのは裁定を文書で通達するところまで。そういう意味で室町時代までの日本は地方分権国家だったともいえる。そしてこの室町時代末期、戦国時代になると、「覇王」という存在が現れる。その代表格が織田信長。それ以前にも信長に比べるとスケールは小さいが、三好長慶や細川政元といった将軍や天皇以上の力を持つ人物がいた。ここで本郷氏が資料として提示してくれたのが細川政元に関する一文。この文章のなかで政元は足利義澄や後柏原天皇に対し、「任官も即位の大礼も何の意味も持たない、ご自分自身で将軍や天皇と思っていればいいのではないでしょうか」と語っている。「このときすでに将軍や天皇を超える存在=覇王が生まれているわけです」
これが信長になると足利将軍を追放して室町幕府を滅ぼす。もし「本能寺の変」がなければ信長は天皇をどう処遇していたか。
「信長は日本の歴史の中では極めて異質な存在。比叡山の焼き討ちは文書ひとつ残らぬ徹底的なものだったし、地方分権が当り前の時代にただひとり天下布武を唱えた。皇室の存続がいちばん危ぶまれたのは信長の時代だったと思います」
信長の天下布武は、その後、豊臣秀吉に引き継がれ、強固な政権によって日本列島は統一される。そう考えると、日本に中央集権国家が誕生したのは「たった400年前」となる。その後の江戸時代が現実には各藩ごとの地方分権であったと見なすと、本当の意味で中央集権国家が実現するのは、明治維新以降とも考えられる。
本郷氏の「夢」は「もう一度、地方が豊かになること」。長い歴史を見れば、日本には地方分権が合っているとも考えられる。

講師紹介

本郷 和人(ほんごう かずと)
本郷 和人(ほんごう かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年 東京都葛飾区生まれ。1983年東京大学文学部卒業。1988年、東京大学大学院人文科学科博士課程単位取得。同年、史料編纂所に入所し、鎌倉時代の史料の編纂に従事する。現在、東京大学史料編纂所教授。文学博士。2012年には大河ドラマ『平清盛』の時代考証をつとめる。著書に『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会)、『戦いの日本史』(角川出版)、『名将の言葉』(新潮文庫)、『武士とはなにか 中世の王権を読み解く』(角川出版)など多数。週刊新潮に「戦国時代のROE」を連載中。