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イベントレポート

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2014年6月10日(火)19:00~21:00 

前潟 由美子(まえがた ゆみこ) / 有限会社小泉和子生活史研究所所員・大妻女子大学家政学部非常勤講師

ちゃぶ台って何だろう?
-家具が語る時代と社会-

「ちゃぶ台」と聞いて、何をイメージするか。サザエさんや寅さんに度々登場する「一家団欒」、それとも、巨人の星に登場する「ちゃぶ台返し」か。これらは、いずれも昭和の風景。日本の伝統的な家具だと思われている「ちゃぶ台」だが、実はその歴史はそれほど古くないのだ。それでは身近な「ちゃぶ台」という家具はどうして生まれたのか?そして、どうして消えたのか?私たちの食卓の変化とそれを取り巻く時代と社会の変化について見ていきながら、改めて現在の私たちのくらしを考える機会となった。

ちゃぶ台はいつから日本の食卓になったのか

前潟由美子氏の専門は「家具の歴史の研究」。日本各地の文化財や洋館などに残る家財を調査研究し、その修復や復元などを行なう一方、大学では生活史などの講義を、また『昭和のくらし博物館』においては企画・展示を担当している。セミナーではまず東京都大田区にある『昭和のくらし博物館』を写真で紹介。昭和26年に建てられた住宅をそのまま利用したこの施設では、昭和30~40年代の暮らしを再現している。「お茶の間」にあるのは「ちゃぶ台」。いまとなっては懐かしい、映画や漫画の世界でしか見られなくなった「昭和の暮らし」がそこにある。昭和の時代、人々はちゃぶ台を囲んでは一家団欒の時間を過ごした。映画の寅さんシリーズしかり、『サザエさん』しかり、家族のいるところには必ずちゃぶ台が登場する。『巨人の星』では腹を立てた父親が「ちゃぶ台返し」をやってのける。こんなふうに「ちゃぶ台」がよく出てくるのは、だいたい高度成長期の1970年代まで。日本人にとってちゃぶ台は昭和ノスタルジーの象徴的存在。ちゃぶ台を思うとき、そこには常に古き良き日本の姿が浮かぶ。
講師いわく、「ちゃぶ台とは、ひとつの食卓をみんなで床に座って囲んで食べるための家具です。特徴は折り畳めることです」。
では、こうしたちゃぶ台はいったいいつ誕生し、いつ衰退していったのか。
「実はちゃぶ台はそんなに古いものではありません」
現代人から見たらノスタルジックなちゃぶ台だが、意外なことに人々が生活に取り入れ始めたのは明治時代の末頃と、そう古い話ではない。それまでの日本ではちゃぶ台のようなテーブルではなく、お膳=銘々膳で食べるのが当たり前。一人がひとつの膳を使って食事をしていた。銘々膳の特徴は「格があること」。身分の高い人間は蒔絵が入ったり黒漆で塗られていたりする高級な膳を、逆に身分が低い人は質素な箱膳を使ったりしていた。こうした銘々膳での食事が普及したのは鎌倉時代。それ以前の平安時代、貴族などは宴会でテーブルと椅子を使うこともあったという。
「平安時代頃は中国の影響がまだ強かったのでテーブルを使っていました。しかしこれが鎌倉時代に入ると変わっていきます」

西洋文化の影響から生まれた和洋折衷の家具

貴族から武士の社会へ。時代が封建社会へと移ると身分の差が重視されるようになった。人々は生活のさまざまな場面で上下関係を表現した。銘々膳はそのひとつ。テーブルでの食事は基本的にそれを囲む者は平等だが、膳は違う。「格」をつけたり、部屋のどの位置で食事をするかで身分差が表われる。一家のなかでも偉い主人や長男は高級な膳で食事をするが、女性や子ども、家人は箱膳。食事をする部屋も異なるなど、身分差が歴然としていた。これは封建制度が終わってからも家父長制として長く日本の社会に残った。
「これが大きく変化したのが明治時代でした」
士農工商が廃止され、法律上は四民平等となったのが明治時代。加えてこの時代は西洋からいろいろな文化が持ち込まれた。その影響を最初に受けたのが支配階級。裕福な人々は洋服を着て、西洋風の家を建て、テーブルを使うようになった。とはいえ、庶民階級の食事はこの頃も銘々膳が主流。ちゃぶ台に似たものとしては長崎を中心に人気があった卓袱(しっぽく)料理で使う卓袱台があったが、これは高級品のため庶民の手には遠かった。
そうしたなか、横浜などから広まってきたのが西洋料理。当時の西洋料理は通称「チャブチャブ」と呼ばれており、店の多くが安価な丸いテーブルを使用していた。ちゃぶ台は、このテーブルを日本の住宅に合わせて低くしたもの。これが明治から昭和初期にかけて庶民の間に広まっていくこにとなった。
「つまりちゃぶ台は、みんなで食卓を囲むという西洋文化と畳に座って食べるという日本の文化から生まれた和洋折衷文化なんですね。ちゃぶ台は昔からある家具ではなく、西洋文化の影響を受けて生まれた家具なんです」
身分制度の名残りがある銘々膳を使う家とちゃぶ台を使う家、その数が逆転したのは昭和2年。背景には大正デモクラシーや関東大震災があった。東京では地震で家を失った人々が新しい家を建てるに際に、膳ではなくちゃぶ台を進んで購入した。折り畳んでしまうことのできるちゃぶ台は狭い日本の家屋にはぴったりだった。また、ちゃぶ台の普及は鍋料理や大皿など共用の食器を家庭に持ち込むことともなった。食器を洗うという習慣もこの頃から定着した。それまでは使った食器は洗わずに膳と一緒に棚にしまうというのが一般的。この点でちゃぶ台は衛生面でも日本人の生活に貢献したといえる。

昭和とともにあった「ちゃぶ台」

「ではちゃぶ台からイメージされる一家団欒の光景はいつ生まれたのでしょうか」
それが本当に実現したのは戦後、憲法や民法が変わり、民主主義の世の中となってからだった。ちゃぶ台の普及率もちょうど戦後のこの時期=1945年頃がピークとなっている。
モニターにはちゃぶ台の普及率を示すグラフが。昭和2年に膳を抜いたちゃぶ台だが、昭和40年代にはその座をダイニングテーブルに取って代わられることになる。この立場はそれ以降も変わることなく、1980年代以降はダイニングテーブルが日本の家庭の食卓の中心となる。「いちばんの理由は戦後の日本人のアメリカ文化への憧れと、団地から始まったダイニングキッチンです」と前潟氏。団地の板張りのダイニングキッチンではちゃぶ台よりもテーブルの方が使い勝手がいい。また、それより早く農村部では、日本の民主化を押し進めるGHQの指導によりダイニングテーブルが使われるようになっていたという。
「あらためて見ますと、ちゃぶ台は昭和のはじめに普及して、昭和の終わりとともに廃れていった、本当に昭和とともにあった家具だということがわかります」
もっとも、今でもちゃぶ台やそれに機能が似たミニテーブルはワンルームに暮らす学生などに愛用されているし、小さな子どものいる家では重宝されている。ちゃぶ台は今後も日本人に愛されていくに違いない。
最後はd-laboセミナーの恒例ともなっている「今後の夢」を前潟氏に聞いてみた。
「ちゃぶ台ひとつの歴史を見ても、そこには社会の変化がギュッと詰まっています。日本にも立派な家具の歴史があるので、それを大切にしていきたいです。そしてこうした家具を文化財にしたいですね。」

講師紹介

前潟 由美子(まえがた ゆみこ)
前潟 由美子(まえがた ゆみこ)
有限会社小泉和子生活史研究所所員・大妻女子大学家政学部非常勤講師
1980年愛知県名古屋市生まれ。京都女子大学家政学部卒業。千葉大学大学院自然科学研究科博士後期課程修了。有限会社小泉和子生活史研究所に入所し、日本近代の家具室内意匠史の調査研究、文化財建造物の室内および家具の修復、昭和のくらし博物館の企画・展示に従事する。このほか、現在は、大妻女子大学非常勤講師として、生活史、都市デザイン論、環境デザイン演習などの講義も行っている。著書に『家で病気を治した時代』(農文協)、『女中がいた昭和』、『少女たちの昭和』(河出書房新社)などがある。