スルガ銀行 Dバンク支店

SURUGA d-labo. Bring your dream to reality. Draw my dream.

イベントレポート

イベントレポートTOP

2014年6月20日(金)19:00~21:00 

工藤 正廣(くどう まさひろ) / ロシア文学者・北海道大学名誉教授 

ロシア文学へのいざない
-「ドクトル・ジヴァゴ」完訳までの道-

時はロシア革命前後の動乱期。純真な心を持ち詩人でもある医師・ジヴァゴを主人公に、ラーラとトーニャという2人の女性への愛を通して波瀾に満ちた生涯を描いた『ドクトル・ジヴァゴ』。ロシアの文豪ボリース・パステルナークの長編大作である同作品を40年の歳月をかけて翻訳した工藤氏が、ロシア革命とその歴史、ロシアの生活・芸術・文学、そしてジヴァゴの歌をロシア語で朗読するなど思いつくままに語り、最後は自作の詩を故郷の津軽方言で朗読いただいた。

『ドクトル・ジヴァゴ』へと至る40年間

セミナー冒頭、参加者に配られたのは「『ドクトル・ジヴァゴ』への登攀北ルート図 1972-2012」。「ルート図」はいわば工藤正廣氏の「個人史」年表。左上に描かれているのは、故郷である青森県津軽地方の名峰・岩木山にも似た「ドクトル・ジヴァゴ峰」。昨年、ロシアの作家ボリース・パステルナークの大作『ドクトル・ジヴァゴ』を翻訳・出版した工藤氏。今回のセミナーはそこへと至る40年間の軌跡を辿るもの。若き日よりロシア文学やポーランド文学に傾倒、北海道大学に籍を置き、研究者や教員としてモスクワ大学やワルシャワ大学でも過ごしたロシア文学者の40年間は、振り返ってみれば「あっという間」だったという。
「今日の話は『ドクトル・ジヴァゴ』の山に登るのに40年かかったという大袈裟な話です」 
ロープシンの『蒼ざめた馬 漆黒の馬』の翻訳で注目を集めていた工藤氏が、初めてパステルナークの詩集『わが妹人生 1917年夏』を出したのは1972年7月。「ルート図」はここをスタート地点に、70年代、80年代、90年代、2000年代へとつづいていく。人は10代、20代、30代と、それぞれの年代に「青春」があるもの。現在71歳の工藤氏によれば、今は「第7の青春」を生きているところ。こうして考えると、40年の足跡は『ドクトル・ジヴァゴ』翻訳に至る、ひとりの文学者の青春そのものと言える。

モスクワ、ワルシャワ……さまざまな人々との出会い

70年代最大の出来事は、76年のモスクワ大学への留学。ここでの思い出は、ロシア語のクラスで正しい発音を会得するのに「いきなり舌を引っ張られた」こと。いかにもロシア的な教え方をされて「喧嘩をした」工藤氏は、授業には出ずに、かわりにパステルナークが暮らした家を訪ねたり、同じく留学中だった安井亮平氏(現早稲田大学名誉教授)と出会ったりと、初めてのモスクワ生活を楽しんだ。帰国後はパステルナークの『リュヴェルスの少女時代』を翻訳。つづく80年代は、まずパステルナークの愛人だったイヴィンスカヤの回想録である『パステルナーク詩人の愛』を翻訳する。次いでパステルナークの『晴れよう時』を出版。84年から85年にかけては交換留学でポーランドへ。ワルシャワ大学で日本文学を教えながら、一方ではポーランド語を学んだ。このときの教え子の中には、現在、村上春樹氏の翻訳者として知られるアンナ・ジェリンスカ氏もいたという。滞在中はグダンスクの教育大学でポーランド語による講演も体験。子どもが話しているような「かわいらしいポーランド語」ではあったが、こうした経験が後に北海道大学でのポーランド語の授業へと結びついた。同大学では現在、ポーランド語は正規の単位となっている。そしてこのワルシャワ大学時代、工藤氏は川崎浹氏(現早稲田大学名誉教授)の紹介でモスクワにイヴィンスカヤ氏を訪ねる。冷戦時代のこと、行きも帰りも監視の「スパイつき」の旅ではあったが、遠来の客をイヴィンスカヤ氏は歓迎してくれた。彼女の小さな部屋は、「パステルナークの遺品でいっぱい」だった。神棚のようなそこに、彼女は毎日蝋燭をつけて灯明をあげていた。引き出しの中は「膨大な写真」。パステルナーク自身は1960年に他界していたが、20数年が経ったこのときもイヴィンスカヤ氏の胸には変わることなく生きつづけていた。 「そのあとはいったん帰国。チェルノブイリ原発の事故が起きたのはその次の年でした」
翌87年、工藤氏は再びイヴィンスカヤ氏を訪ね、再会を祝った。2年後の89年には『ドクトル・ジヴァゴ』が母国で初めて出版される。同年の5月、世界文学研究所の日ソ共同シンポジウムでは、パステルナーク自身が「チューホフをモデルに小説を書く」と、『ドクトル・ジヴァゴ』の構想を初めて明かした相手であるチューホフ研究者・グローモフ氏に出会う。グローモフ氏はパステルナークとイヴィンスカヤ氏の「逢い引き」の目撃者でもあったともいう。
「実は、グローモフさんとイヴィンスカヤ一家は同じマンションに住んでいたんです。グローモフさんの窓から見える一階の角の部屋がイヴィンスカヤ一家の部屋で、そこを訪問するパステルナークを目撃していたというわけ。世間というのは非常に狭いですね」
同年の秋、工藤氏はモスクワ大学に3か月間派遣される。この頃の旧ソ連は崩壊前の「がたがた」の状態。それでも訪ソした工藤氏は3度目となるイヴィンスカヤ氏訪問を果たす。
1990年はパステルナークの生誕100年。このときはモスクワで開かれたシンポジウムに参加。91年3月にはカセットテープ24巻からなる『ドクトル・ジヴァゴ』の全朗読を協力者のアナスタシーア・ズヴャギンツェワとともに制作。同年12月には旧ソ連が崩壊。この年、工藤氏はイヴィンスカヤ氏から「パステルナークについての講演を世界各国で行ないたい」とモスクワから電話で相談を受ける。生返事をしているうちに実現せずに終わったこの講演は、工藤氏にとっては「一生の後悔」。結局、工藤氏がイヴィンスカヤ氏と言葉を交わしたのはこれが最後。それから4年後、彼女は83歳で世を去ることとなる。

故郷の津軽方言で詩を書く

現在はロシア文学の他に故郷の津軽方言で詩を書いている工藤氏。その契機となったのは旧ソ連の崩壊だったという。ひとつの国家の終焉は工藤氏に故郷を思い出させた。
「僕は長い間ロシアにうつつを抜かして故郷の言葉を忘れていた。それで急遽故郷に帰って津軽方言の研究を始めたんです」
2000年代に入ると、作家の町田純氏が未知谷出版社につないでくれたおかげで、パステルナークの詩集を次々に刊行。それでも大作『ドクトル・ジヴァゴ』を訳すつもりはなかった。しかし、退官した年に起きた自宅の火事と、体の不調や病気がそれへと向かわせた。火事では「家も本も焼けた」。その中で焼け残ったのが『ドクトル・ジヴァゴ』だった。そして、病気やそれに伴う激痛を克服するには、「何かするしかなかった」。それが『ドクトル・ジヴァゴ』の翻訳のきっかけとなった。
後半はパステルナークの『降誕祭の星』をロシア語で、次いでどこかロシア語に響きの似ている津軽弁で書いた自作の詩を朗読。最後は今後の「夢」について話していただいた。
「今はパステルナークの評伝を詩の形で書いているところです。そのあとにやりたいのは下北半島の恐山。あの生も死もごったまぜのぶっとんだ世界を、津軽方言も日本語もロシア語も交えて、僕なりにむちゃくちゃなものにして書いてみたいですね」
「第7の青春」真っ盛りの工藤氏の夢は、これからも果てしなく広がっていくだろう。

講師紹介

工藤 正廣(くどう まさひろ)
工藤 正廣(くどう まさひろ)
ロシア文学者・北海道大学名誉教授 
1943年 青森県生まれ。北海道大学で教鞭をとり、かたわら20世紀ロシアの詩と小説の翻訳に熱中。2013年、70歳になる直前に、ノ―ベル文学賞受賞詩人パステルナーク(1890-1960)の全詩集7冊と、不朽の大作ロマン『ドクトル・ジヴァゴ』真訳を刊行した。