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イベントレポート

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2014年6月26日(木)19:00~21:00

池上 俊一(いけがみ しゅんいち) / 東京大学大学院 総合文化研究科 教授

パスタで読み解くイタリアの歴史

今や世界を席巻し、日本人の食卓にもすっかり定着したパスタ。この素敵な食べ物は、イタリアの歴史と切っても切れない関係にある。なぜなら、ローマ時代から現代まで、イタリアの貴族や農民・都市民たちが、それぞれの夢と知恵を持ち寄って出来上がった合作がパスタだからだ。またその驚くべきバリエーションは、イタリアを特徴づける郷土愛・地方分権主義に由来する。今回は、パスタにイタリア二千年の歴史が詰まっていること、パスタを理解することは、イタリア人を理解することにつながることなどについて、興味深いエピソードとともにお話しいただいた。

「北イタリアの生パスタ」と「南イタリアの乾燥パスタ」

パスタとは、スパゲッティやマカロニ、ニョッキなど「小麦などの穀物やジャガイモなどを細かく製粉して水とともにこね、成形したものを茹でたり蒸したりして食べる」食べ物の総称。パスタ発祥国のイタリアでは国民食であり、代名詞のようなもの。日本はもちろん、いまや世界中で愛されている食材だ。
「この素敵な食べ物には、一般庶民である農民からエリートである貴族まで、さまざまな人の夢と知恵が詰まっています」と池上俊一氏。その起源はローマ時代、「現在のラザーニャの原形のようなもの」から始まったという。作り方はパンと同じで小麦を粉にして水とともに練る。パンとは違い酵母で膨らませることはせず、練った後にそのまま成形し、さらに茹でるという「水との二重結合」が特徴の食材だ。ローマ時代のラザーニャは、茹ではしなかったが、少なくとも2000年以上も昔からこの地の人々はこうした食べ物に慣れ親しんでいた。その後5世紀に西ローマ帝国は滅亡。イタリアにはゲルマン人が侵入し、パスタの原料である小麦の生産量は落ち込んでしまう。それが11世紀から13世紀あたりになると、パスタが復活。13世紀末のサリンベネの年代記には修道士がラザーニャを食べていたという記述が見られるし、14世紀の貴族のレシピにも、肉汁で茹でたラザーニャにチーズをかけて食べるといった料理法が載っている。当時はまだ現在のように多様なソースはなく、人々はパスタに粉チーズをかけて食べていたという。
「これが14、15世紀になると、ロングパスタ、ショートパスタ、ニョッキ、詰め物パスタなど、多様な形のパスタができるようになっていきます」
形だけではない、軟質、普通質の小麦が栽培されていた北イタリアでは生パスタが、デュラムなど硬質性の小麦がとれた南イタリアでは乾燥パスタと、この頃からイタリアでは大きく分けて2種類のパスタが作られるようになっていく。

パスタを発展させたトマトソース

話を戻すと、パスタにはイタリア起源説とそうでないという説がある。北イタリアのパスタについて一時期語られていたのが、13世紀に東方を旅したマルコポーロがイタリアに持ち帰ったとされる説。しかし最近の研究でこれは否定されている。一方で南イタリアで生産された乾燥パスタについては「アラブ起源説」が残っている。14世紀頃、パスタを指す言葉として使われていた「トリヤ」という言葉はアラビア語の「イトリーヤ」が語源。この言葉自体は、古い医学書に記載があったものの、何を意味するか判明していなかった。しかし、9世紀のアラビアの料理書には同名の乾燥パスタが登場しており、やがてイタリアでも「トリヤ」がパスタ一般を指す語となった。同時にこの時代、アラブ人はシチリア島に住み着き、12世紀半ばにはすでに乾燥パスタを輸出していたという記録が残っている。
「生パスタがローマ時代の記憶から甦ったものなら、乾燥パスタはシチリアから広まった。このように起源の違う2つのパスタがまざりあってイタリア各地に広まっていったんです」
南イタリアで盛んに生産された乾燥パスタはジェノバの商人たちによってイタリア中に広まった。その証拠に14、15世紀の何冊かの料理書には10種類以上のパスタの名が登場する。写本の挿絵を見ると、パスタ作りは女性の仕事。中世のフィレンツェにはパスタ作りのギルド(職業組合)があり、多くの女性が働いていたと言われている。このようにパスタは中世から女性と深く結びついていた。これが近代になると「マンマの味」となってイタリアの各家庭に浸透していく。
パスタが充実した料理となったのは大航海時代以降。新大陸からトマトやトウモロコシ、ジャガイモといった新しい食材が持ち込まれたことがその理由となった。トマトを熱して食べることが考案されたのは17世紀。ここで生まれたトマトソースは19世紀頃からパスタにも使われ始め、「不可分の間柄」となった。この時期にもっとも大きな働きをしたのがナポリ王国。17世紀以降、ナポリはシチリアに変わってパスタの生産センターになる。ナポリ王国の人々は「マンジャマッケローニ=パスタ食い」と呼ばれ、製法も機械化されていった。

国家統一後、パスタは事実上の国民食に

都市国家の集まりだったイタリアが統一されたのは1861年。このとき、革命の立役者のひとりであるガリバルディは「諸君、マッケローニ(パスタ)こそイタリアを統一するものになるであろう」と演説している。現在イタリアで再版されているアルトゥージ著作の『料理の科学と美味しく食べる技法』という国内各地のパスタ料理を紹介した料理書は、この時代に刊行されたもの。同書はベストセラーとなり、パスタは事実上の国民料理として認知される。
パスタの特徴のひとつは、その種類の多さ。文献を見ると、中世のパスタはまだ貴重な品であり、庶民にとっては憧れの食べ物だった。南イタリアの一部をのぞき、人々は祭りなど特別なときにしかパスタを食べることができなかった。食べ方は、パスタにチーズをかけて食べるほか、典型的な農民料理であるミネストラ(ごった煮)に入れて食べていたのではないかと想像される。野菜や豆、塩漬け肉などと一緒にパスタを煮て食べることが多かったのだろう。一方で貴族は肉料理と合わせてパスタを楽しむほか、詰め物パスタを好んで食べた。国家統一後は各地でいろいろなレシピが考案され、いまでは数えきれぬほどのパスタ料理が食べられるようになった。日本に入って来たのは第二次世界大戦後、まずはアメリカを経由してスパゲッティやマカロニなどが肉料理のつけあわせとして食卓を賑わすようになる。その後、1970年代の第一次イタリア料理ブームを経て、80年代以降はさまざまなパスタがイタリアから直輸入されるようになる。多くの料理人が現地で修業。現在では世界でも珍しいほどたくさんのイタリア産食材やおいしいイタリア料理が食べられる国となっている。
セミナーの最後は耳たぶの形をしたオレキエッテや極太のピーチ、ロングパスタのリングイネ、作るのにギターのように弦を使うキタッラ、極細ロングパスタのカペリーニ、サフランを用いたマッロレッドゥス、詰め物パスタのアニョロッティ、卵入りパスタであるタヤリンなど、無数にあるパスタの一部を紹介。質疑応答を経て池上氏の「夢」を尋ねた。
「日本人なりに西洋史を勉強してきました」という池上氏。
「夢は向こうの人には見出せない観点からなる大掛かりな書物をフランス語で書くこと。自分の観点を欧米の人たちに問うてみたいですね」と池上氏は熱く語った。

講師紹介

池上 俊一(いけがみ しゅんいち)
池上 俊一(いけがみ しゅんいち)
東京大学大学院 総合文化研究科 教授
1956年 愛知県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科西洋史学専攻修士課程修了。1986~88年フランス国立社会科学高等研究院に留学、研究に従事する。専攻は西洋中世史。幼児向け絵本から高度な学術書まで、幅広い読者層に向けて執筆している。主な著書に『ロマネスク世界論』、『ヨーロッパ中世の宗教運動』、『公共善の彼方に-後期中世シエナの社会』(いずれも名古屋大学出版会)、『パスタでたどるイタリア史』、『お菓子でたどるフランス史』(いずれも岩波書店)などがある。