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イベントレポート

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2014年7月18日(金)19:00~21:00 

印東 道子(いんとう みちこ) / 国立民族学博物館教授・総合研究大学院大学教授

南太平洋の考古学
-人類の海洋進出の歴史-

太平洋の存在は16世紀にヨーロッパ人が発見するまで知られていなかったが、そこには数千年前から人びとが暮らし、ハワイやタヒチなどでは王族が治める秩序ある社会が形成されていた。この人々はいつ、どうやって海を越えていったのだろうか...さまざまな疑問を解くために、現在も考古学者たちが世界各地で調査を行なっている。今回は国立民族学博物館の印東氏をお招きし、ミクロネシアのサンゴ島で続けている発掘調査の結果をもとに、資源が乏しい小さな島で1800年前から続く人々の暮らしについて、そして発掘した出土品から過去の情報を引き出し、復元していくプロセスなどについてもあわせてご紹介いただいた。

人々はカヌーで海を渡り、南太平洋の島々に住み着いた

広大な太平洋には無数の島々があり、その多くに人間が暮らしている。今回のテーマは、この太平洋の中でもとりわけ島嶼の多い南太平洋(オセアニア)。
「南太平洋は厳密に言うと赤道より南側を指しますが、今日は便宜的に太平洋地域全体を南太平洋と呼ぶことにいたします」
講師の印東道子氏は、日本オセアニア学会会長。考古学者としては、これまでにパラオやヤップ島、ロタ島、チューク諸島、モートロック諸島などミクロネシアの島々で発掘調査を行なってきた。現在はミクロネシア連邦のヤップ州にあるファイス島を中心に調査研究を進めている。このセミナーでは、前半はポリネシア、メラネシア、ミクロネシアからなるオセアニア地域全般、後半はファイス島での調査についてお話しいただいた。
「南太平洋というと『リゾート』、『南海の楽園』というイメージが強いと思います」。そのイメージをつくったのはヨーロッパ人。大航海時代に南太平洋を訪れたヨーロッパの航海者たちは、たわわに実るパンノキの実やバナナを見て、寝ていても食べ物に困らない「楽園」のイメージを抱いた。しかし、それはもとからのものではなく、実は「オセアニアの人々がつくりだした景色」だった。16世紀、マゼランがヨーロッパ人として初めて南太平洋を横断したときには、すでにハワイにもニュージーランドにもタヒチ島にも、また彼が訪れたグアム島にも先住の人々が住み着き、社会を形成していた。 では、彼らはいつ、どこから来たのか。人類の歴史を辿ってみると、アフリカ大陸で20万年前に誕生したホモ・サピエンスが他の地域に進出しはじめたのは約6~5万年前。ヨーロッパには約4万2000年前、南北アメリカ大陸には約1万3000年前ごろに足を踏み入れている。オセアニア地域を見ると、オーストラリア大陸に人々がやって来たのは約4万5000年前で、アメリカ大陸に渡るよりずっと早かった。
しかし、南太平洋の大半の島々は、その後も無人島だった。そこへ、今から4000年前ごろに、土器をもった人々が西からカヌーで海を渡り、南太平洋の島々に移住し始める。まずは約3500年前、ニューギニア島の北部からソロモン諸島、サモア、トンガへ。そして約1000年前にはさらに東のイースター島やハワイまで航海していった。このころはエルニーニョ現象が頻繁に起きた時期で、いつもとは逆向きに風が吹くので、カヌーでの航海がしやすかったのだろう。新しい島を見つけた人々は食用に適した植物や家畜を持ち込み、集落を形成し、王国をつくる。この「人類の拡散」のあとをたどる手がかりが「ラピタ土器」。メラネシアからサモアにかけて3000年~3500年前の文化層から出土するこの装飾土器は、ポリネシアの人々がメラネシアを通って東へと移動していったことを証明している。

発掘調査に適していたミクロネシアのファイス島

印東氏が研究のテーマとしているミクロネシアにも、たくさんの島があり人が住んでいる。この人々がいつごろどこから来たのか、よくわかっていなかった。パラオやヤップ島などの西側の島々と、それより東の島々ではまったく違う言葉が話されている。移住の歴史が違うのだ。しかし、言語からはいつごろ移動してきたかを知るのはむずかしい。そこで重要になるのが考古学である。
もっとも、南太平洋は考古学的な研究が進んでいる地域とは言い難い。とりわけミクロネシアに多い小さなサンゴ島は交通の便の悪さや、環礁島独特の「2メートルも掘ると地下水が出て来る」といった環境から調査が進んでいない。印東氏が通うファイス島もそのミクロネシアの小さなサンゴ島のひとつだ。
ファイス島の面積は約2・8平方キロメートル。皇居の2倍ほどの小さな島には200~300人の人々が暮らしている。印東氏がこの島を発掘調査に選んだのは土器が見つかっていたから。島には考古学者は入っていなかったが、1970年代にアメリカの人類学者が調査に訪れたときに土器が発見されていた。これは考古学的には「すごい情報」だ。
「ファイス島はサンゴ島で土器の材料となる粘土がない。その島で土器が見つかるということは、どこかからか持ち込まれたことを意味するんですね」
どこで作られた土器か。もっとも可能性の高い島は、ファイス島と交易関係をもっていたヤップ島だった。すでにヤップ島で土器の研究をしていた印東氏にとって、ファイス島での調査は、島と島の交流の歴史を調べるよい機会。しかも、隆起サンゴ島のファイス島は、内陸の高さが20メートルほどあるので「発掘中に地下水に悩まされることはない」。そして週に一度だがヤップ島から飛行機便があって移動しやすかった。こうした条件から、印東氏はファイス島を研究対象に選んで最初に考古学のメスを入れ、20年にわたって調査をつづけてきた。

文化層から出た遺物から見えてきた島の歴史と人々の暮らし

発掘場所を選ぶ目安は「遺物が落ちている場所」。昔の人が生活していた場所の地表には、蟹が地中から引っ張り出した土器片などの遺物や魚の骨などが転がっていたりする。これらがもっとも多く見つかった海岸沿いの数か所で発掘をしたら、3メートルを超える深い堆積が見つかった。年代測定の結果「ファイス島に人が渡って来たのは約1800年前」ということがわかった
「発掘から見つかったのは、土器や貝斧、鮫の歯で作ったナイフ、亀の甲羅を用いた釣り針などの他、犬や豚,鶏、ネズミなどの骨。どれも重要な発見でした」
犬や豚の骨がみつかるのは、人々が「家畜を連れた計画的移住」をした証拠だ。とくにこの3種類が継続して見つかる島は、ミクロネシアではファイス島だけなので注目される。魚が豊かなラグーン(礁湖)を持たないファイス島の人々は、積極的に外海で漁をした。鮫や回遊魚といった獲物は、その歴史を物語っている。また、「土器が継続して見つかるのもヤップ島など他の島と交易をしていた証拠」でもある。歴史時代には「航海が下手くそ」と言われたファイス島民は、先史時代には積極的に海上を移動して必要なものを手に入れていたことがわかる。人骨に副葬された中国製やイタリア製のガラスビーズ、島に伝わる機織りの技術からは「ミクロネシア外の世界ともコンタクトを持っていたことが窺える。
「昔のファイス島の人々は、現代の人々より行動範囲が広く勇敢だったんですね」
若い頃は「クルーザーを持って飛行機便のない島で遺跡をさがすのが夢」だったという印東氏。ファイス島の人々が1800年の長きにわたってどのように暮らしてきたか、現在はその研究成果を整理中。数年内には報告書を完成させる予定だ。 

講師紹介

印東 道子(いんとう みちこ)
印東 道子(いんとう みちこ)
国立民族学博物館教授・総合研究大学院大学教授
東京都出身。オタゴ大学人類学部博士課程終了(Ph.D.)。専門はオセアニア考古学、民族学。ミクロネシアの島々を中心に発掘調査を行っており、「人類はなぜ海を越えたのか」、「どんな工夫をして生活をしていたのか」などを多角的に研究している。主な著書に『南太平洋のサンゴ島を掘る』(臨川書店)、『オセアニア:暮らしの考古学』(朝日選書)、編著書に『人類の移動誌』(臨川書店)、『人類大移動』(朝日選書)、『イモとヒト』(平凡社)などがある。現在、日本オセアニア学会会長。