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イベントレポート

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2014年9月9日(火)19:00~21:00

梶谷 真司(かじたに しんじ) / 東京大学大学院 総合文化研究科 准教授

共に問い、共に考える
~対話としての哲学~

「考えること」は、人間が人間らしく生きていくうえで、もっとも重要なことだ。でも「考える」ということは、そもそもどういうことなのか。そしてどのように考えればいいのか。哲学とは、この「考えること」そのものであり、生きることにおいて、誰にとっても必要なものだと言える。ではどのようにして哲学は、すべての人のためのものとなるのか――今回のセミナーでは、対話型の哲学が登場した時代的・社会的背景や従来の哲学との違いについての話があり、そのあと実際に対話を体験した。「語る」-「聞く」という対話を通して、共に問い、共に考えることで、誰もが自ら「哲学する(philosophize)」場がおのずと生まれる。そして参加者は、哲学を学ぶのではなく、自ら哲学者になる――そんな時間だった。

哲学とは「問い、考える」こと

普段は東京大学駒場キャンパスで教壇に立つ一方、同大学内にある哲学研究センターUTCP(The University of Tokyo Center for Philosophy)で「哲学をすべての人に(Philosophy for Everyone)」というプロジェクトを推進したり、「高校生のための哲学サマーキャンプ」を開催したりしている梶谷真司氏。哲学対話のイベントに多くの参加者が来るのを見ると、最近は一般の人たちが哲学に関心を持っていることを実感するという。
哲学とは、問い、考えることだ。
「私が若い頃は哲学なんて普通の人からは難しいものと敬遠されていた。それを思うと今の状況は不思議だと思うのとうれしいのと両方あります。あらためて、〈考える〉ってきっと誰にとっても楽しいことなんだろうなと感じています」
難しいイメージの哲学を一般の人に近づけたのが、最近さまざまな形で行なわれるようになった「対話型哲学」だ。これは研究としての哲学ではなく、「実際に世の中と関わる」ところで実践するもの。国際的には、世界各国の小中学校などで実践されている哲学教育が背景にある。ことにこの動きは冷戦以降、旧共産主義国の間で盛んになった。 それに対して日本はどうかというと、「そんなにひどい価値観の喪失はない」。これは他の資本主義国にしても言えることだ。しかし、社会主義という対立軸がなくなったことで、やはり「何が正しいか」がわかりにくくなったのが今の時代だ。そうするうちに世界はグローバル化し、多様で複雑な状態が当たり前になった。日本人の生活を見てもライフスタイルが変化し、人によっていろいろな価値観を持つようになった。昔ならみんなが同じテレビ番組を観ていたりして、共有しているものがたくさんあったから、意気投合して盛り上がっていればよかった。だが今の時代は違う。
「よく最近の若者はコミュニケーション能力がないと言われますが、そういうわけでもないと思います。昔ならいろんなものを共有していたけど、それがなくなったためにコミュニケーション能力の不足が目立つ時代になっただけです。今は共通したものを持たない人同士が一緒に何かをやっていかなきゃならなくなったということなんですね」

「わからなくなる」という経験が大事

世の中には、本当に何でも言える場がどこにもない。それを可能にするのが「哲学対話」だ。もともと日本では学校でも「議論をあまりさせない」のが特徴。学級会などで話し合いをしても、「先生が望む答えをみんなで当てている」のが実態。議論の前提を崩すような「いい質問」をする子は「困った子」扱いされてしまう。それに高校の倫理は「たんなる暗記科目」にすぎない。最近は国の方針で道徳教育を進めようとしているが、「道徳的になることは哲学ではない」。
「哲学とは、道徳的になることではなく、〈道徳的とは何か〉を考えることなんです」
「考える」こと自体はけっして難しいことではない。
「昔は哲学というと、大学でよくわからない講義を受けて、原文を読んで、知識を身に付けて、基本的には一人で考えるものでした。そして専門的な知識を身に付けた人は論文や本を書いたり講演をしたりする。一般の人はそれを読んだり聞いたりするだけ。いわば、提供・生産する側と、受容・消費する側で役割がはっきり分かれていました」
それが「対話型哲学」では違う。概念や学説を学ぶのではなく、誰もが考えることのできる「問い」を出し、それについてみんなで一緒に考える。そこには役割の区別はなく、誰もがその人の立場から参加できる。こういう「哲学」だから、幼稚園児でも大人に混ざって対話に参加できる。実際に梶谷氏が行なったワークショップでは「幼稚園の子が議論の流れを変えたこともある」という。
「ディベートと違うのは勝ち負けがないことです。大切なのは、物事の理解を深めたり、疑問を持ったり、その背景や前提を探るプロセスなのです」
一般の学校教育は「わからないことをなくす」のが目的だが、「対話型哲学」では「わからなくなる、という経験がすごく大事」とされている。わからなければ質問をすればいい。ただそれだけのことだ。

自分の体験から出た言葉で語れれば、誰とでも話ができるようになる

「対話型哲学」のもうひとつの特徴は「共同作業」であること。「自分で考える」と同時に、他の人たちと「共に考える」。これを梶谷氏たちは「探求の共同体」と呼んでいる。
「元々哲学というのは、プラトンの本を見ても対話で話が進められています。孔子も弟子が質問して先生が答える。対話こそが哲学の原点なんですね」
実際の対話には「できるだけいろんな人がいた方がいい」。同じ集団の人たちだと価値観が似ているので、「そうだよね」で終わってしまうからだ。対話の場では「何を言ってもいい」し、「何も話さなくてもいい」。ただし、議論をするときは互いの話に耳を傾けあい、けっして対立したりアグレッシブになったりはしないこと。どんな意見が出ようと、けっしてバカにして笑ったりはしない。ディスカッションの場では往々にしてよく話す人が偉いといった感じになるが、ここでは違う。ゆっくりでいいから、自分の体験から語ることが重要。外から得た知識ではない自分の言葉で語ることができるようになれば、人は「誰とでも話ができるようになる」。そして「結論はひとつでなくてもいいし、そこに至らなくてもいい」。実際にセミナーの後半では「受容するとはどういうことか」をテーマに参加者全員が2つのグループに分かれて対話を行なったが、結論に至ることはなかった。
「わからなくていい。わからなくなるということは、いままで見えてこなかったものが見えてきたということで、物事をより深く理解していくことなんです」
体験したセッションは時間とともに終了。参加者の胸に残る「もやもやした気持ち」や「欲求不満」はみんなが持って帰る「お土産」だ。
「不満が残ると人はそれについて考えつづける。だから本当の対話はこの後始まるんです。自分自身と、あるいは家族や友人と話をするんです。そうやってぜひ考えつづけてください」
最後は「夢」についての質問。「今までの自分の人生を振り返ると、夢に向かって何か決断したことはないんです。いつもいろんな出来事や人間関係に巻き込まれ、流されて生きてきました。それで幸せでも不幸でもなかった、あるいはその両方でした」と語る梶谷氏。「たぶんそうやってこれからもずるずると生きていくんだろうと思います。それが私の夢と言えば夢ですね」 

講師紹介

梶谷 真司(かじたに しんじ)
梶谷 真司(かじたに しんじ)
東京大学大学院 総合文化研究科 准教授
1966年 愛知県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。専門は哲学、比較文化、医学史。最近は、「哲学対話」のプロジェクトを推進。主な著作は『シュミッツ現象学の根本問題――身体と感情からの思索』(京都大学学術出版会)、「集合心性と異他性――民俗世界の現象学」(『雰囲気と集合心性』京都大学学術出版会に所収)などがある。