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イベントレポート

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2014年9月18日(木)19:00~21:00

板倉 聖哲(いたくら まさあき) / 東京大学 東洋文化研究所 教授

東山御物
~足利将軍家が見た美の復元~

この秋、三井記念美術館で開催される「東山御物の美」展(10月4日~11月24日)は、足利将軍家が所蔵した絵画・工芸が一堂に会す、貴重な展覧会となる。「東山御物は単なる中国美術ではなく、それらを基にして多くの作品が生み出された、日本美術にとっても『古典』である。多くは国宝・重要文化財などの指定品であるため、そう簡単に展示できるものではない」と同展覧会の監修を務める板倉氏は語る。北宋時代の風流天子、徽宗の「桃鳩図」(個人)は10年ぶりに公開、日本水墨画の父とされる南宋時代の画僧、牧谿の「蜆子和尚図」(個人)・「老子図」(岡山県立美術館)など出陳される今回の展覧会の見どころを、交渉時のエピソードを交えながら紹介いただいた。

日本美術の古典となった「東山御物」

板倉聖哲氏が「おそらく10年に一度しかできない展覧会」と話す『東山御物の美』展。関心の高さを表わすかのように会場であるd-laboコミュニケーションスペースは満席の状態。セミナーはまず「東山御物とは何か」というところからスタートした。
「東山御物とは足利将軍家のコレクション。室町時代は唐物、とくに宋の時代の物が崇拝されていて、足利将軍家も大陸の優れた美術品や工芸品を収集していました。東山ですから、想起されるのは銀閣寺や、それを造った八代将軍の足利義政になると思います」
「御物」とは中国の皇帝など、時の施政者が持っていたもの。権力者のコレクションだけに、足利将軍家が集めた美術品も庶民に目に触れることはほぼなかったが、室町幕府崩壊後の安土桃山時代に、寺社や堺の豪商の手に渡りその存在が広く知られるようになった。「東山御物」と呼ばれるようになったのもこの頃のことだという。
「これらの優れた中国絵画は、東山殿(義政)が持っていたことから『東山御物』と呼ばれるようになったんです」
ただし、これが少し経つと御物はふたたび織田信長や豊臣秀吉といった権力者の物となり、江戸時代に入ると存在そのものが伝説化していく。一方で名声は高まり、東山御物は日本美術鑑賞のひとつの基準=古典となる。
しかしこの東山御物、実は収集したのは義政ではない。
「これらの作品を集めたのは、実は義政の祖父で三代将軍の足利義満です。そのあとには義満の息子の六代将軍の義教がつづきました」
義満と言えば南朝と北朝をひとつにまとめ、室町幕府を確固としたものに築き上げた人物。文化的造詣も深く、さまざまな事業を展開した。「東山御物」はその代表例。義満がこれを収集したことは能阿弥撰の『御物御絵目録』にもはっきりと記されており、実際、義満がとくに大切したと思われる作品には彼の鑑蔵印である「天山」や「道有」が捺されている。他にも作品を納めた蔵の名を刻んだ「善阿」や義教の印である「雑華室印」など、御物が義政以前のコレクションであることを示す印が残っている。

足利義満が憧れた徽宗皇帝

義満が御物を集めるにあたってとくに意識したのが、北宋時代の皇帝である徽宗だった。徽宗皇帝は中国歴代皇帝の中でも書画に長け、中国美術史上最高と言われる巨大なコレクションを築き上げた「芸術皇帝」。後に描かれる『水滸伝』などでは亡国の皇帝として扱われているが、義満にとっては「憧れの存在」。当然ながら東山御物にはこの徽宗皇帝やその宮廷画家たちの作品が多く集められている。そして多くが現在は国宝や重要文化財に指定されている。中でも重要なのは1107年の作とされる「桃鳩図」。桃の枝にとまった鳩の絵には、左下に義満の「天山」印が捺してある。
一見するとオーソドックスな構図。だが、よく見ると「変わった描き方をしている」ことに気付くはずだ。実際の鳩よりも丸い胸と背中。そして線に沿って筆を走らせた色の塗り方。その非常に細緻な表現から生まれるのは「平面的でありながら立体的」な絵だ。この作品で徽宗は「古い構図と新しい技術」をひとつの画面で表現している。「桃鳩図」は徽宗の作品を代表する作品であり、日本でも大切にされ、江戸時代には狩野常信や松平定信によって模写されている。近代になるとアメリカ人アーティストのジョセフ・コーネルに真似られたり、田中一光の「ヒロシマ・アピールズ」にその影響を見ることができたりもする。板倉氏によると「個人所蔵のために保存状態は驚異的にいい」。今回の『東山御物の美』展でも1週間に限り展示されるという。
もう一点、「桃鳩図」と並んで重要なのは「四季山水図」。雄大な自然の中にいる高士を描いたこの作品は、もともと春夏秋冬の4幅があったとされるもので、現在は夏と秋、冬の3幅が残っている。『東山御物の美』展では普段は別々に保管されている夏と秋、冬を合わせて展示する。この図で注目したいのはそこに隠されている仕掛けだ。秋景図ではよく高士の視線を辿ると飛んでいる2羽の鶴がいることに気付く。しかもそのうち1羽は口を開けている。そして鶴と鶴の間には金泥によって光を表わす線が入っている。ここで作者は鶴に口を開けさせることで「声=音」を、金泥によって見えない「光」を絵の中で表現しようとしている。実はこの作品は徽宗皇帝の手によるものではないが、徽宗自身は絵画に対してこうした思想を持っていたとされる。故に最初にこれを目にした日本人は徽宗の作と鑑定した。結果的に間違ってはいても、こうした点から「当時の日本人はひとつの見識を持っていた」と板倉氏は語る。他にもこうした「仕掛け」は東山御物のさまざまな作品に見ることができる。これを読み解いていくのも東山御物を鑑賞する楽しみのひとつだ。 

「東山御物」の一方の核である南宋の水墨画

徽宗皇帝とともにもうひとつ、東山御物の大きな柱となっているのは南宋の禅宗絵画だ。その中心は牧谿(もっけい)。四川出身の僧である牧谿は大陸では無名な画家だが、日本では「水墨画の父」として君臨する人物。『東山御物の美』展では、初期の代表作である「蜆子(けんす)和尚図」、中期の「羅漢図」、晩期の作品である「老子図」や山水画などを公開する。牧谿の他にも、後を追うように桃山時代に評価が高まった玉澗(ぎょくかん)や、宮廷画家でありながら禅宗的な主題を好んだ梁楷(りょうかい)などの作品も展示されるという。
東山御物を見ているとおもしろいのは、作品の取り合わせ方。義満の時代、その下には同朋衆と呼ばれる学芸員兼芸術家のような人々がいた。彼らは作品を収集するだけでなく、鑑定や管理、修理指導、展示、演出、絵画制作などを行なった。ときにはもともと巻物だった物を日本の茶室などの空間に合うように切断して掛け軸にしたりもした。
「日本人は原作にリタッチしないという美徳は持っていましたが、もう一方では感性に合うように時代の異なる作品を対にして並べてみたり、自分たちの鑑賞空間に合わせて作品を大胆に改変してきたんですね」
魅力の尽きない東山御物。その専門である板倉氏自身、「研究するために見るのではなく、見るために研究している」という。
「今の夢は10年後にまた名品を集めた展覧会を企画すること。そのときは今回の展覧会で惜しくも展示の叶わなかった作品をお見せしたいですね」

講師紹介

板倉 聖哲(いたくら まさあき)
板倉 聖哲(いたくら まさあき)
東京大学 東洋文化研究所 教授
1992年4月、東京大学大学院人文科学研究科博士課程(東洋美術史専攻)中退。東京大学文学部助手(1992年~1996年)、財団法人大和文華館学芸部部員(1996年~1999年)を経て、1999年、東京大学東洋文化研究所助教授。2013年、同教授。現在に至る。