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イベントレポート

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2014年9月25日(木) 19:00~21:00

宮下 佐江子(みやした さえこ) / 古代オリエント博物館 研究員

古代の化粧・香りの文化史

「化粧」というと現代では大方女性の専売特許で、男性が日常生活で化粧すれば、「あれはなんだ!」と耳目を集めてしまうだろう。大人の男性で「あっ、いい香りをつけている」という方にはなかなか出会うことはない。しかし、古代西アジアでは男性が化粧をすることは貴族のたしなみのひとつで、アイシャドーはくっきり、香りは厳選して準備された。貴婦人は豪華な化粧道具を使って、念入りに化粧していた。この化粧の歴史に触れつつ、西アジア古代文明のおもしろさを古代オリエント博物館研究員の宮下氏にお話しいただいた。

古代の人々は「目」に対して特別な思いを持っていた

「化粧」という言葉を『広辞苑』で引くと、「①紅・白粉などをつけて顔を装い、飾ること ②美しく飾ること」といった記述が出てくる。そこにあるのは「礼儀と教養、身嗜み、そして美的欲求」。最近では電車の中で化粧をする女性の姿を目にするが、元来化粧とは「人の目に触れない場所で施すもの」だ。故に文化としての化粧は詳しい記録が残りにくいと講師の宮下佐江子氏。今回のセミナーは、そのあまり知られていない「化粧」と「香り」を古代西アジアの歴史から迫るもの。紀元前3200年頃からローマ時代にかけて、日常生活や祭事において人々が施してきた「化粧」や「香り」について、壁画や彫刻、発掘品などの豊富な画像や文献に残る記述を辿りながらご説明いただいた。
人類が化粧を始めたのは遠い昔。旧約聖書の「列王記 下 9章30節」には「イゼベルはそれを聞いて目に化粧をし、髪を結い、窓から見下ろしていた」という一文がある。イゼベルは紀元前9世紀頃の古代イスラエルの王妃。この一文から当時の高貴な女性が化粧をしていたことがわかる。
「当時の化粧は目の周りに施すのが中心。眼病予防のために目の縁にコールを、顔には黄土を塗っていたと言われています」
こうした「目の化粧」は実際にはイゼベルの時代よりもはるか昔から行なわれていた。
「古代の人々は『目』というものに対して特別な思いを持っていた。悪い目に睨まれると災いに遭うと信じ、それを強い目で睨み返そうと目のまわりに化粧を施したり、目をあしらった魔除けのお守りを身につけていました」
シリアの北東部に位置する「テル・ブラク遺跡」からは、それを表わす紀元前3600年頃の「眼の偶像」が出土している。そして東地中海やイランなどで発見された「トンボ玉」にも眼球があしらわれている。日本でも節分に「目籠」と呼ばれる竹製の網目の籠を軒下に吊るして魔除けとする習慣があった。鬼瓦や沖縄のシーサーも、剥いた目の力で外から来る悪いものを睨み返すといった役割がある。こうしたことから人間には古来から「目」に対する信仰心があったことが読み取れる。

眼病予防を兼ねていたアイメイク

では、古代の人々はどんな化粧品を使っていたのか。古代メソポタミアの都市国家ウルからは、金製の化粧容器が発掘されている。大英博物館に所蔵されているこの化粧容器に入っていたのは「孔雀石の粉末」だ。これはアイライナーに用いられていたという。「孔雀石(くじゃくせき)の粉末」は化粧品としては高級品。他には香りのある樹脂やアーモンドの果皮などを炭焼にして粉にしたものが使われていた。こうした化粧には、顔をきれいに見せることはもちろん、前述した理由から目力を強くしたり虫がたかることを防いで眼病を予防したりといった目的があった。
「シリアのようなところでは、『トラコーマ』という眼病が伝染しやすいです。目に蠅はたかるし、清潔な水がないから子どもたちは汚れた手で目をこすってしまうんですね」
こうした土地柄もあって、古代メソポタミアでは化粧は女性のものだけではなく男性のものでもあった。それを示すように、シリアやアフガニスタンなど各地の遺跡からも化粧容器が発掘されている。
もうひとつ、古代メソポタミアの化粧の特徴は「左右の眉がつながっている」こと。とくにシュメール人が残した像を見ると、そのどれもが眉がつながっている。ただ同じ古代国家でもエジプト人の眉はつながっていない。
「エジプトもやはり眼病予防で目に化粧はしていましたが、眉はつなげていませんでした。眉の描き方で顔の印象は随分変わるので、2つの地方の違いもなかなか興味深いところです」
その後に栄えるギリシャではエジプトの化粧法を踏襲。これがローマ時代になると、それまではあまり見られなかった口紅をするようになっていく。だがやはり化粧でもっとも重要視されたのは「目」。これはローマだけでなく、インドや中国でも同じことが言える。その中で例外だったのが日本。
「日本では江戸時代に目の上を赤く化粧することが流行りましたが、アイメイクが一般的になったのは1960年代以降でした」
日本ではごく最近の化粧であるアイメイクだが、メソポタミアでは5000年以上前から当たり前のものになっていた。そこには気候や風土、民族による目の大きさの違い、信仰心などが背景としてあると見られる。

鎮痛剤や防腐剤としても用いられた「香油」

セミナー後半は「香り」がテーマ。「香り」と聞いて現代人が最初に思い浮かべるのは香水。しかし古代では「香り」は液体ではなく「焚いて」つくり出すものであった。
「最初の『香り』は、おそらく草や木を火に投じて、いい匂いがしたことが始まりだったと思われます」
人びとは香りを焚くことによって、それを天にいる神に捧げていた。現在でも仏教やキリスト教では香を焚く。そうすることで「同じ神様を信じているという一体感」を人々は持つことができる。そういう意味で宗教における香りは「ひとつの装置」になっている。
古代オリエントで使われたのは「乳香(にゅうこう)/オリバナム・フランキンセンス」と「没薬(もつやく)/ミルラ」。前者は「松脂のような樹脂」。鎮痛剤として使われるだけでなく、神に捧げるものとして聖書にも登場する。「没薬」もまた樹脂で、こちらも鎮痛剤などとして利用される他、ミイラ造りにも使われていた。「強く生き生きとした香り」が特徴で、近年は男性用の香水にも使用されている。どちらも聖書にはイエス・キリスト生誕の際に東方の三博士が贈り物として持参したと書かれている。こうした樹脂の他、古代の人々は豚や牛などの油に花びらを撒いて香りをつけ、それを香油として用いていた。当時の壁画を見ると、香炉や煙状に「香り」が描かれている。
一方、「香り」は香油の登場で「塗る」ものにもなっていく。乾燥地帯がほとんどの古代オリエントでは、これが肌の状態を保つのに重宝された。古代の香りにはこの他、正倉院にある蘭奢待(らんじゃたい)のような「香木」や動物の分泌物などもあった。なかには「アンバーグリス(マッコウクジラの腸にできる結石)」のように大変稀少なものもある。
「こんなものまで見つけるのだから、人は昔から『香り』に執念を持っていたんですね」
宮下氏が発掘調査をしてきたシリアは現在内戦状態。宮下氏の「夢」は、そのシリアのパルミラでふたたび発掘をすることだ。
「それが可能になるには30年くらいかかるかもしれませんが、杖をついてでも行きたい。絶対に叶えるぞ、というのが私の夢です」
宮下氏が力強く夢を宣言されると、会場は大きな拍手につつまれた。

講師紹介

宮下 佐江子(みやした さえこ)
宮下 佐江子(みやした さえこ)
古代オリエント博物館 研究員
東京都出身。上智大学文学部史学科卒。専門は西アジア考古美術史、特にヘレニズム期以降の東西交流にみられる諸相について研鑽中。1990年から奈良県立橿原考古学研究所によるシリアの隊商都市パルミラの発掘調査に参加し、墓内肖像彫刻を中心に研究している。山川出版社から企画・編集したMUSAEA JAPONICAシリーズで『華麗なる植物文様の世界』、『栄光のペルシア』、『ユーラシアの風 新羅へ』、『シルクロードのガラス』などを共著で出版。西アジア考古学会、日本オリエント学会会員。