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2014年10月21日(火)19:00~21:00

本郷 恵子(ほんごう けいこ) / 東京大学史料編纂所教授

日本中世の主従制と世襲制

「前近代の社会を貫く原理は、主従制と世襲制です」と言われると、わかったような気にならないだろうか? 武士といえば主従制であり、その主従関係は世襲されて続いていく。そして、日本最初の武家政権である鎌倉幕府は「源氏の棟梁源頼朝のもとで、将軍と御家人の主従制を軸として成立した」と説明されている。しかし頼朝の血筋をひく将軍は三代、三十年ほどで絶えてしまった。主人である将軍を失った主従制は、どのように維持されたのか? そもそも主従制の本質とは何なのか? 「家」、「世襲」などの血縁原理とは何なのか? 現代の組織や人間関係の中にも根強く生きる主従制と世襲制について、鎌倉幕府のかかえていた葛藤を見ながら、その本質に迫った。

現在も生きている「世襲制」と「主従制」

普段は東京大学史料編纂所で南北朝時代の資料編纂を担当している本郷恵子氏。史料編纂とは「古文書を集めて年代順に並べ、この日にこういうことがあったと活字に起こして本の形にしていくもの」だという。この日のセミナーでは、本郷氏が纏めてきた前近代の歴史の中で、とくに武士による政権である鎌倉幕府の運営に重要な役割を果たした主従制と世襲制にポイントをおいて考えた。
「主従制や世襲制は現代においても組織をつくるのに生きている論理です」
実際、現在も政治家やオーナー企業には世襲が多い。封建的で古くさいとされながらも、血縁の持つ力はいまだに大きい。ことに前近代において「血縁という集団」=「利益共同体」は社会を支える単位として大きな力を持っていた。その代表格が万世一系の天皇家であり、幕府の将軍家をはじめ、時の権力者たちは世襲によって権力を継承してきた。
「ただ、血縁だけでは勢力の拡大に限界があり、そこで生まれたのが主従制です」
日本の歴史の中で、この主従制が機能しはじめたのが鎌倉幕府だ。学校の教科書にも「鎌倉幕府は将軍と武士との主従制によって成り立っている」と書いてある。主従制というと思い浮かぶのは「武士道」。イメージとしての武士は、主人のためには命をも捨てるといったものだが、実際の鎌倉幕府はどうだったか。
鎌倉幕府の主従制は「双務契約」。主人である将軍は従者である武士=御家人たちの所領を安堵し、また功があれば新たに土地を給与する。それに対して武士たちは合戦があれば戦い、平時は警察機能となって将軍に奉仕する。つまりは「ギブアンドテイク」の関係。双方の力の入れ方が釣り合っていて、はじめて成り立つのが「双務契約」だ。

主従制的支配権から統治権的支配権へ

では、そうした鎌倉幕府はどのようにして生まれたのか。まだ幕府ができる前、源頼朝が行なったのは東国の武士たちを自分の陣営に取り込むことだった。鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』によると、治承4年(1180年)の8月、伊豆での挙兵に際して頼朝は有力な武士たちを1人ずつ静かな部屋に招き、「まだ誰にも言っていないがお前だけに話そう」と言葉を尽くして平氏政権への反乱を打ち明ける。武士たちはこれに感激し、「頼朝様のために戦おう」と誓う。
「この時点では主人と従者は人格的な関係。頼朝という人は人たらしだったんですね」
頼朝は血縁も最大限に利用した。範頼や義経といった弟たちを西国に送り込み、戦線を広げて最後は壇ノ浦で平氏を滅亡させた。ただし、政権確立後は、力を持った血縁が邪魔になり、義経は追討、範頼も流罪となり、後に命を落とすこととなる。「合戦には『数』が必要。だから血縁は多ければ多いほどいいが、終わってしまうと邪魔になるという『非常にアンビバレントな存在』」。頼朝はその矛盾に悩んだ末、一族を整理するという手段に出た。
1192年に征夷大将軍になると、頼朝は以前のように「従者と一対一のような関係(主従性的支配権)」を「幕府と従者との関係(統治権的支配権)」に変えていく。武士たちに渡す「下文」なども、それまでは自ら手書きの「袖判」を入れていたが、将軍家の事務局である「政所」から事務官たちの連名で発行するようになる。効率や永続制を考えると後者の方が便利だが、頼朝との個人的なつながりを重んじる有力な御家人たちの中にはそれがおもしろくない人間たちもいた。実際、下野国の小山朝政などは「ごねて」、それ以降も袖判付きの下文をもらっていたりした。
「リーダーというのは、『親分肌で人間的に魅力のあるリーダー』と、『ちょっと冷たいけど公正で間違いのないリーダー』の2つのタイプがいます。時期によってどちらのリーダーがよいかは意見が分かれます。鎌倉幕府の成立期にすでにそういう問題が起きているんですね」

「法と道理」での政権運営とその限界

頼朝によってつくられた鎌倉幕府。しかし二代目の頼家は専制的過ぎて修善寺に流される。三代目の実朝も暗殺され、以降の将軍は京都から呼び寄せた「摂家将軍」や「親王将軍」となる。これらはいわばお飾りで、代わりに政権の運営は有力御家人の集まりである「評定衆(ひょうじょうしゅう)」による合議制となる。この合議制は「法と道理に基づいて議論を行なう」ことが原則。ただし、これは最大の勢力である北条氏が独裁政権をつくるには力が足りずに採用した制度という一面もある。宝治元年(1247年)にライバルだった有力御家人の三浦氏を滅ぼすと、北条氏は惣領の家系である「得宗」が専制的な権力をつくっていき、本流でない一族は粛清されることとなる。一方で御家人たちを見ると、当時浸透してきた貨幣経済のために、時流に乗れず土地を失う者が出てきていた。「得宗」を支えた極楽寺流北条家の当主であった北条重時が残した家訓からは、そうした時代の状況を読みとることができる。「道理の中に僻事あり、又僻事のうちに道理の候」と書かれた家訓には、「正しいと思って道理だけを通すと相手を追い詰めることになってしまう場合もある」と説かれている。そこには事と次第では相手が悪くても目を瞑って見逃してやれ、といったニュアンスが含まれている。また重時は酒宴の場での振る舞いも「貧シキヲバモテナスベシ」と諭している。この重時の家訓は「非常にリベラルかつヒューマニスティックで深いもの」。見方を変えると、鎌倉幕府はもはや道理や法だけでは片付かない時代を迎えていたことがわかる。
こうした矛盾が決定的となったのが蒙古襲来だ。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の二度に渡る元寇で、幕府と御家人たちとの双務契約は崩れることとなる。武士たちは必死に戦ったが、幕府には新恩として与える土地がない。鎌倉まで直訴に来たことが認められて土地を与えられた竹崎季長のような例外もあるが、御家人たちの不満はたまっていき、その後、半世紀ほどで鎌倉幕府は滅亡に至る。以降、武家政権の主従制、世襲制は室町時代もまた模索を重ね、江戸時代にひとつの成熟期を迎えることになる。こうしてみると鎌倉幕府の歴史とは、その「葛藤」を乗り越えてきた歴史ともいえるだろう。
本郷氏の「夢」は、専業主婦になってガーデニングやパッチワークを楽しむこと。
「人文学者としては、みなさんにもっと読んだり書いたりといったことに興味を持っていただけたらと思います」

講師紹介

本郷 恵子(ほんごう けいこ)
本郷 恵子(ほんごう けいこ)
東京大学史料編纂所教授
1960年 東京生まれ。1984年東京大学文学部卒業、1987年東京大学大学院人文科学研究科単位取得退学。現在東京大学史料編纂所教授。専攻は日本中世史。古文書や日記などの史料から、過去の人々の心の動きを再現できたらと考えている。主な著書に『将軍権力の発見』(講談社)、『蕩尽する中世』(新潮社)、『買い物の日本史』(角川ソフィア文庫)などがある。