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イベントレポート

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2015年1月17日(土) 14:00~15:30

德光 和夫(とくみつ かずお) / フリーアナウンサー

マイク アラカルト

湘南を愛してやまない德光氏。
アナウンサー人生50年を通して培ったさまざまなエピソードを語っていただいた。

力道山、長嶋茂雄― 人々がテレビに夢を見た時代

d-labo3拠点目となる「d-labo湘南」が、2014年12月12日、藤沢市の新名所として話題を呼んでいる「湘南T-SITE」内にオープンした。持続可能をテーマにした新しい街「Fujisawaサスティナブル・スマートタウン」のランドマークにもなっている「湘南T-SITE」1号館2階のスペースが、新たな夢の発信地となる。その記念すべき第1回セミナーのゲストは、茅ヶ崎市在住で、2014年には湘南国際マラソンのゲストサポーターを務めるなど、湘南に縁の深い德光和夫氏。
「私の仕事は“司会者”ですから、たとえば2時間番組をやったとしても、私自身が話している時間といえば、正味10分くらいなんです。それを、今日は1時間半、しかも視聴率は100%なわけですから、勝手が違って緊張しております」
と、親しみあふれる語り口で、会場も和やかなムードに。アナウンサーとしてテレビに携わって50年以上。現場を経験したからこそ今思う「テレビの功罪」について考えてみたい、として始まったマイク放談は、笑いあり、含蓄ありの、心に響く90分となった。
まずはテレビの黎明期の話から。昭和28年2月1日午後2時に、NHKが第一波を放送したのが、日本におけるテレビ放送の始まりだった。8月には民間テレビ局第一号となる日本テレビが開局。「まずはテレビを見てもらう」ことが目的だったこの時期には、人々は街頭に設置された受像機で映像を見ていたが、そんなテレビ界の最初の救世主となったのが、相撲からプロレスに転向した力道山だった。
「力道山がアメリカ人の大男を投げ倒す、その光景に、戦後まだ8年ほどで敗戦の傷が癒えきっていない日本国民は熱狂しました。その後、家庭の中にテレビが入り始めるきっかけになったのが、昭和34年の今上天皇のご成婚です。この世紀のパレードを茶の間で見てもらおうと、電機メーカーがテレビを大量生産。ご成婚のときの馬車のパレードは、日本のテレビでは初めての“現場からの生中継”となりました」
この「同時性」こそが、テレビの一番の面白さだと德光氏は言う。
「生で伝えることの面白さ。それは、50年経った今でも変わっていないと私は思います」
そして、テレビが一般家庭に普及したころ、新たなヒーローが誕生する。
「この時期に、王貞治と長嶋茂雄の2人がジャイアンツにそろった、というのは、テレビ界にとっての奇跡(笑)。特に、得点圏打率5割を誇った長嶋茂雄が、ここぞ、というときにカキーンと打ってくれる。それを見ながら、一日中働いてクタクタになったお父さんたちも、ビール一杯の泡とともに、すーっと溜飲を下げて、よし、明日も頑張るぞ、となる。日本の豊かさの原点は、長嶋茂雄にあったといっても過言ではありません」
そんな長嶋の眩しい姿は、当時高校生であった德光氏の人生も変えることになる。「長嶋茂雄の後輩になりたい」と立教大学へ進み、昭和38年に日本テレビに入社。けして成績はよくなかったと言い、大学入試や入社試験でのエピソードで会場を笑わせた德光氏だが、「誰かに憧れる。その思いの強さで、大きなハシゴを上がることができた。」と、感慨深く振り返った。

「生はテレビを救う」 テレビの面白さとは!? 

德光氏といえば、日本テレビチャリティー番組『24時間テレビ』の司会でもお馴染み。1978年の第1回から出演しているが、この番組が、テレビ界にとって大きな転機だったと分析する。
「当時のテレビは、ビデオテープが導入されて省力化が進むとともに、『同じ時間帯に同じ人が複数のチャンネルに出る』という状況が可能になりました。それが『視聴者に対して失礼だ』という議論を巻き起こすなどして、我々テレビの人間にとっては、暗黒の時代でもあったのですが、そんなとき、『24時間テレビ』が誕生したんです。この無謀な企画に賛同してくれた萩本欽一さんが、24時間一睡もせず、一般の人と触れ合う、その姿を生放送する。何が起こるかわからない、生だからこそのハラハラ感が、視聴者をひきつけました。あれがなければ、テレビは録画テープを編集したものばかりの、つまらないものになっていたかもしれません。『愛は地球を救う』ならぬ、『生はテレビを救う』だったのです」
同時性こそがテレビの面白さだということを、作り手も視聴者も再発見したことで、テレビは新たな時代へと進む。質の高いドキュメンタリー番組や、『どっきりカメラ』といった名物バラエティ、さらには久米宏の『ニュースステーション』に代表される、見て面白いニュース番組などが生まれていったのだ。当時のテレビマンたちの果敢な挑戦や、思いもよらない笑える失敗談など、德光氏が語ってくれた裏話の数々からは、「番組作り」への情熱がうかがえた。

“感性”の時代だからこそ、“理性”を大切にしたい

しかし、インターネット化が進む現在、テレビは再び苦戦を強いられている。「NHKの連続テレビドラマ小説『おしん』の視聴率は60%だった」という時代は過ぎ、視聴率10%台なら合格、というのが現状なのだとか。
「正直、飽きられているのでは…と思います。テレビは作り方を考えていかないといけない」
“作り手”の問題だけでなく、膨大な情報にさらされている“観る側”についても、德光氏は危機感を抱く。
「現代は、日々頭の上を膨大な情報が通り過ぎてゆく時代です。それを一つひとつ吟味するのは物理的に難しい。だから、つい物事を、 “理性”ではなく、『好き、嫌い』、『面白い、面白くない』という“感性”で次々と判断してしまいがちです。そうすると、自分の好きなものだけをセレクトする“感性人間”が増えていってしまうんですね。けれど、世の中が感性人間ばかりになってしまうと、優しさや思いやりといった心が失われてゆくのではないかと心配してしまいます」
特に若い人に多い“感性人間”には、“理性人間”が粘り強く関わっていくしかない、と德光氏。
「教育でも、親子関係でも同じだと思います。“感性世代”には、“理性世代”のほうから歩み寄って、情報に対して理性的に判断を下せるように助言をしていかなければいけない。テレビ放送においてもそうです。放送とは“送りっ放し”と書きますが、送りっ放しにするならば、せめて作るときには、「面白い、面白くない」の感性だけに頼るのではなく、視聴者が理性的な判断をする一助となるように、できるだけ多くの情報を、緻密に届けることが、メディアの役割なんじゃないかと私は考えています」
身ひとつ、マイク1本で90分間、セミナー参加者の心を引きつけた德光氏。最後には、「今日いらした皆さんの限りない幸せに『ズームイン!』」と懐かしのポーズを決めるサービスも。話すこと、伝えることの意味を考えさせられたマイクアラカルトだった。

講師紹介

德光 和夫(とくみつ かずお)
德光 和夫(とくみつ かずお)
フリーアナウンサー
1941年 東京都出身 74歳
1959年 長嶋茂雄氏にあこがれ立教大学入学
1963年 日本テレビ入社 プロレス中継 うわさのチャンネル 紅白歌のベストテンなど数多くの番組を担当『ズームイン!!朝!』は1979年から9年間司会を担当
1989年 日本テレビを退社 フリーアナウンサーとなる
日本テレビチャリティー番組『24時間テレビ』は1978年の第1回から出演
2011年 『24時間テレビ』で史上最高齢ランナーを務め完走する
現在もラジオやテレビのレギュラー出演・ゲスト出演から国民的行事の司会やAKB選抜総選挙等の各種イベントの司会までこなすなど各方面で活躍。また「巨人と競馬」をライフワークとする。