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イベントレポート

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2015年1月28日(水) 19:00~21:00

白駒 妃登美(しらこま ひとみ) / 株式会社ことほぎ代表取締役

歴史が教えてくれる日本人の生き方

人生の岐路や逆境に立たされた時、いつも私に力を与えてくれたのは、歴史上の人物たちだった。歴史のエピソードを知り、そこに生きた人たちの思いや生き方に触れることで、私たちの視野は広がり、生きるための知恵を身につけることができるのだ。また、歴史上の人物を愛おしく思えるようになると、さらに日本が好きになり、日本人であることをより誇りに思うことができる。今回は「博多の歴女」として親しまれている白駒妃登美氏をお招きし、先人たちからの素敵なメッセージをご紹介いただいた。

「夢」が「志」へと変わるとき

西洋人がみずから「夢」や「目標」を持って生きるのに対し、日本人は天命に導かれるように「志」を大切にして生きてきた。「夢」は「自分が死んでしまえば終わり」なのに対し、「志」は「大好きな人に笑顔になってほしいと願ったときに自然と湧き起こってくるもの。そしてそういう志は、たとえ自分が死んでも誰かに受け継がれていく」。そう説く白駒氏だが、「十代の頃は西洋型の成功ばかり夢見ていた」ともいう。大学は経済学部。海外への憧れから大手航空会社の客室乗務員に。だが、外国に出て自分の国を客観的に見るようになると、「日本がどんどん好きになっていった」。あるときからその思いをブログで書くようになると、出版社から「本にしませんか」と声がかかった。以来、歴史の本を4冊出版。各地で「日本人の生き方」について講演を行なうようになった。歴史の専門家ではない白駒氏がこんな活動をするようになったのも、まさに天命に導かれたがゆえのことだ。

実は5年前、1冊目の本を出すときは「人生最大のピンチ」だった。一度患った子宮頸癌がもとで、癌が肺に転移。死を覚悟し、「残された時間は子どもたちのために生きよう」と決意したときだったが、「本を残すことは自分が生きていた証になる」と思い直し、葛藤の末に出版に漕ぎ着けた。すると、不思議と癌細胞は消え、病気が治ってしまった。説明のつかない不思議なことだったが、自分なりに解釈することにした。

「5年経った今もこうして生きていられるのは、きっと自分が日本人の生き方に気が付いたから、私の中の遺伝子が喜んでスイッチがオンになり、それで自然治癒力や免疫力が上がったのではないかと思っています」

セミナー冒頭では、その「日本人の生き方」の代表として「なでしこジャパン」の足跡を上映。いまだに記憶に新しい2011年の女子ワールドカップ優勝。もともと選手たちにとって優勝は「夢」だったはず。が、東日本大震災を経験し、それは「志=使命感」へと変わった。

「なでしこジャパンの選手たちは、ほんのひと時でいいから被災地の人たちに笑顔になってもらいたい、そして日本人として頑張っている姿を世界の人たちに見せたいと思ったはずです。そのときに夢が志に変わったのではないでしょうか」

日本列島には「恩」が循環している

「子どもの頃から伝記が好きだった」という白駒氏。そんな白駒氏にとって「歴史上の人物はお友達のような感覚」だという。「今日は友達自慢をしたいと思います」と第一に挙げたのは、偶然にもスルガ銀行創始者の岡野喜太郎。明治時代、岡野は地元沼津が台風の被害に見舞われたことを機に貯蓄の大切さを痛感し、貯蓄組合を設立。数年後、その貯蓄組合を礎として、資本金1万円の全国で一番小さい銀行「根方銀行」が誕生した。その後、沼津は大火に襲われたが、万一の際の災害に備えた堅牢な本社社屋はたとえ町が焼け野原になってもびくともしなかった。そして関東大震災時には、毎日本店に集めていた取引日報を武器に、どこの銀行よりも早く営業を再開し、地元の復興に取り組んできた。こうした「奇跡」を支えたのは「岡野さんの故郷を思う志」であり、彼の思いに応え、「毎日日報を手書きで写し続けた行員たちの努力」である。つまり「奇跡というのは有り得ないことが起こるのではなく、小さな日常の積み重ねがもたらすものではないか」と白駒氏は感じているという。

次の「お友達」は、幕末に独力で「黒船」を建造してしまった伊予宇和島藩。1853年のペリー来航は日本人にとって衝撃以外の何物でもなかった。巨大な黒船や西洋の進んだ科学技術に日本人は圧倒された。だが、諸藩の中には「あの蒸気船を俺たちも造ろう」と考えた藩が3つあった。それが宇和島藩と薩摩藩と佐賀藩。なかでも白駒氏が注目するのは宇和島藩だ。もともと開明的で石高も大きい佐賀や薩摩と違って、宇和島藩はわずか10万石の貧乏大名。それでも藩主の伊達宗城(だてむねなり)は長州の村田蔵六(後の大村益次郎)など「オランダ語の天才」を招き船の設計図を翻訳。蒸気機関の製造は「手先が器用だから」という理由で提灯職人に委ね、力技で黒船を建造してしまう。こんなふうに幕末の地方では「西洋の新たな知識と日本の既存の技術が融合」した「産業革命」が興った。これは「世界でも例を見ないユニークな産業革命」だ。

さらに白駒氏が紹介してくれた「親友」は慶應義塾大学医学部を設立した北里柴三郎。ドイツ留学中の破傷風菌の純粋培養や血清療法の発見で若い頃から世界的に知られていた北里。しかし日本に帰ってからは古巣の東大医学部と対立し居場所を失ってしまう。そこに手をさしのべたのが、福沢諭吉だった。福沢は私費で北里に研究所と診療所を提供。これに恩を感じた北里は福沢の死後に慶應大学に医学部を創設し、無報酬で学部長を務める。同じようなことは、北里を助けた福沢諭吉にも言える。若かった福沢に目をかけて世に出したのは木村摂津守喜毅(きむらせっつのかみよしたけ)。福沢は生涯、木村への恩を忘れずにその家族への援助を続けた。人間は恩を感じると必ず行動し、その恩を相手に返すだけではなく、別の人へと送っていく。「日本列島には人間の体の中を血液が循環するように〈恩〉が循環している。日本の歴史というのは〈志〉と〈報恩感謝〉の歴史なんですね」

「おもてなしの心」は「日本人の才能」

セミナー後半のトピックは「おもてなし」。客室乗務員をしていた頃、白駒氏は自分の仕事を「接客業」ではなく「接遇道」と考えていたという。機内でコーヒーを出すとする。たとえ一期一会の相手でも、出し方ひとつでそれは「たかが一杯のコーヒー」から「されど一杯のコーヒー」に変わるという。

「接遇道とは、おもてなしを極めること。一人ひとりをVIPだと思うことで、相手の方は自己重要感が満たされるのではないでしょうか」

ここでも参考になるのは歴史上の人物。豊臣秀吉は家臣たちの自己重要感を満たす天才だった。江戸の三大美人と謡われた「笠森お仙」もそうだった。「おもてなしの心」は「日本人の才能」。それは5年後の東京オリンピックでも必ずしや発揮されるはずだ。

「生かされていることに感謝して大切な人のためにできることをしたい」という白駒氏の「夢」は「震災で支援してくれた台湾と日本との架け橋の釘一本になること」。

「台湾の人たちはいまだに日本統治時代の日本人の功績や美徳を覚えてくれています。多額の義援金はその表われ。私もこれからは台湾に対する自分の気持ちをどんどん発信していきたいと思います」

講師紹介

白駒 妃登美(しらこま ひとみ)
白駒 妃登美(しらこま ひとみ)
株式会社ことほぎ代表取締役
福岡県福岡市在住、埼玉県出身。慶應義塾大学経済学部卒業。大手航空会社に国際線の客室乗務員として、7年半勤務後に退社、 二児の母親となる。2008年「結婚コンサルタント マゼンダ」として福岡を拠点に活動を始める。2011年、『人生に悩んだら「日本史」に聞こう~幸せの種は歴史の中にある』を祥伝社から出版。TVやさまざまなブログ等で取り上げられ、現在10刷を数え、ロングセラーとなる。 2012年、日本の歴史や文化の素晴らしさを国内外に発信するために、「株式会社ことほぎ」を設立。現在、年間に実施する講演、研修は150回を超えている。主な著書に、 『感動する! 日本史』(中経出版)、『日本人の知らない日本がある~こころに残る現代』(KADOKAWA)、『愛されたい!なら日本史に聞こう』(祥伝社)などがある。