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イベントレポート

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2015年1月29日(木) 19:00~21:00

荒谷 大輔(あらや だいすけ) / 江戸川大学 社会学部准教授・NPO法人 リトルネロ・ファクトリー理事長

経済をあらためて考える
~過去・現在・未来~

「経済」という言葉は、キリスト教では、神による救済を意味していた。救世主としてのキリストを信じることが、人が最後に救われるための条件とされたのだ。この「信じる者は救われる」という構造は、意外にも、現代の経済にもそのまま当てはまるという。今回は、江戸川大学社会学部准教授の荒谷氏をお招きし、アベノミクスや金融危機などを例に、今の経済における「信」の役割を確認し、今後のありうべき「経済」の姿についてお話しいただいた。

「経済」の語源は古代ギリシアの「オイコノミア」

哲学者とは「既存のシステムを一段深く考え直して、当たり前になっている構造をもう一回別の視点から見る」人。そうした視点から「机上の空論ではなく、今の社会も考えよう」と「経済」について研究を進めてきた荒谷大輔氏。このセミナーでは古代ギリシアから現代へと至る「経済」の歴史や経済学、そしてその未来について語っていただいた。

まずは「経済の歴史」から。経済は英語だとエコノミー。その語源は古代ギリシアの「オイコノミア」。これは「オイコス=家」と「ノモス=法」という2つの言葉からなっている。哲学者のアリストテレスはこの「経済=オイコノミア」という言葉を「知性による家の管理」であると説いていた。ここで言う「家」は現代の核家族とは違い、もっと大きな大家族を指す。当時のギリシアは奴隷制度が当たり前。家には主人がいて奴隷がいる。「知性」を持つ主人は基本的には働かず、生産手段は奴隷たちに任せ、自分は町の中心であるアゴラ=広場に集まって同じ身分の自由人たちと政治談義をしていた。「今の社会に当てはめるなら「家」は会社。社長が切り盛りをし、社員が働くと考えればわかりやすいかもしれませんね(笑)」

これがもう少し時代が進みストア派の時代(BC.3C頃~AD2C)になると、この「家」のスケールは大きくなり、「主人」は「神=宇宙精神=理性」、「家」は「世界」と解釈されるようになる。世界は理性=宇宙精神によってうまくまわる。そして人間の中にも理性があり、それは宇宙精神と共感する。そう考えたストア派の人々は「人々が理性をもって宇宙精神と融和することで世界の秩序が発生する」ことを「オイコノミア」と称するようになった。「経済」を「世界全体の秩序」と考えたわけだ。

キリスト教の教義としての「経済」

この「ストア派の経済」をうまく組み込んだのがキリスト教だった。

「キリスト教では、人間は原罪を負って楽園を追放されるというユダヤ教から引き継いだ考え方をもっている。神の世界は『調和』しているけれど、人間の世界は、それ自体ではうまくいっていないわけですね。こうした天地の二分法に、ストア派の調和の思想を合わせるためには、『信じる者だけが神が計画したオイコノミアに参加して救われる』と考える必要があった。キリスト教では、『経済』は「『救済』とセットで考えられるようになったのです」

こうして「オイコノミア」は「世界も人も全体が調和の中に入っている」といった思想から「信じる者は救われる」という発想に転換され、長らくキリスト教神学の中で用いられていくことになる。「これは今の経済にもまるごと当てはまります」と荒谷氏。経済にはそれを信じることで投資が集まり成長するといった部分があるからだ。

ただし、この教義はルネサンス期に入ると大きな転換を迎える。その起爆剤となったのがフィチーノによって発見された「ヘルメス文書」。1600年代に偽書であることが判明されるまで「古代エジプトの神」によって書かれたとされていたこの文書の登場で、それまでのアリストテレス主義的キリスト教神学とその権威は否定されることになる。また自然科学の分野でもコペルニクスの「地動説」に代表される「転回」が起き、それに呼応するように「経済」の意味も変わりはじめる。「天上」と「地上」という二分法が廃棄されて、キリスト教が再定義され、神の意志はこの世界の「自然」に直接的に表れている、「自然」こそが「オイコノミア=エコノミー」をなしているのだ、という発想へと移る。それに従い、ニュートンによる万有引力の発見など自然科学が進歩していくことになる。

「西洋社会においては、優れた自然科学者に敬虔なキリスト教信者がたくさんいる。日本人の文脈からすると宗教と科学は対立するように感じるかもしれませんが、キリスト教の中では信仰の発展形態として自然科学があったんです」

新しい「経済のシステム」を考える

そうした「自然への探求」は人間の「自然=本性」への探求へとも広がっていく。「各人がその義務を果たすならば、一般的善は、それがあらゆる個々の行為の目的とされる場合より、はるかにうまく増進される」といったケイムズ卿の自然神学や、「自然=本性が、このような仕方でわれわれを欺き、労苦を課すことは、よいことである。こうした欺瞞によって、人類の勤労=産業が掻き立てられ、連続的な運動のうちに保持されるのである。この自然の欺瞞こそが、人々をして大地を耕すことを促し、家屋を建設し、都市と公共財を創り出し、人間の生活を高貴で美しいものとする、あらゆる科学と技術を発展させたのだ」と説くアダム・スミスの「道徳哲学」が生み出されることになる。

「興味深いことに、アダム・スミスは、一生努力して金持ちになってもできることはたかがしれている。しかし、それでも努力してしまうのが人間の本性であり、この人間の本性が我々を欺いて労苦を課すのだが、それが社会の発展には役立つと言っているんですね」

やがてこの「自然の欺瞞」は分業制による大量生産の時代を招き、「生産物は、生産された時点で売れたと考えて構わない」という「セイの法則」を登場させるに至る。普通の商売人の視点から考えると荒唐無稽に見えるこの法則は、19世紀を通じて展開された植民地主義を下支えするイデオロギーとして機能した。実際、この法則をいち早く信じた人間が、大きく儲けることになったのだ。だがこの「古典派経済学」は帝国主義における搾取の限界とともに疑問が持たれるようになり、やがてマルクス主義が台頭して20世紀の世界を二分する思想になっていったが、資本主義を支える経済学内部でも古典派は改革されることになる。ケインズによって「貨幣(の流動性)は、それ自身で欲望の対象となる」という「流動性選好」が肯定されることで、セイの法則は完全に否定されることになる。その改革は同時に、不況を脱するためには、人びとが「経済」が成長するという神話を信じ続ける必要があるということを経済学の内部で認めることを意味していた。公共投資による「経済」への信の維持がなければ、「不況」が発生して「経済」のシステム自体が危機にさらされるのである。

「このケインズの理論は、人々による経済成長の夢の共有を不況脱出の条件とするもの。その意味では、アベノミクスもこれと同じですね」

しかし、長引く不況の現代では、ケインズが単に理論として予測していた「流動性の罠」が現実化し、「経済」に対する信頼を維持するための金融政策がほとんど機能しない状態になっている。

「これまで人はうそでもいいから信じることで、なかば無理矢理に『経済』を維持することを続けてきましたが、なかなか限界にきているというのも事実。哲学者としては、今の経済が大きく破綻する前に、システムとしての経済に別の可能性がないか探求する必要があると思っています」

そんな荒谷氏の「夢」は、その「新しい経済の仕組み」をつくることだ。

「経済とは、結局、人間が持つ〈夢を見る力〉を構造化すること。夢見る力を搾取せず、信頼し合える関係のネットワークを新たにつくることを目指しています。昨年末から『リトルネロ・ファクトリー』というNPOを立ち上げたのは、そうしたネットワークづくりのためです」

講師紹介

荒谷 大輔(あらや だいすけ)
荒谷 大輔(あらや だいすけ)
江戸川大学 社会学部准教授・NPO法人 リトルネロ・ファクトリー理事長
専門は、哲学/倫理学。主な著書に『「経済」の哲学:ナルシスの危機を越えて』(せりか書房、2013)、『西田幾多郎:歴史の論理学』(講談社、2008)などがある。