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イベントレポート

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2015年3月10日(火) 19:00~21:00

井伊 岳夫(いい たけお) / 彦根市教育委員会事務局文化財部文化財課歴史民俗資料室副主幹

井伊直弼の生涯

幕末の大老・井伊直弼は、評価が分かれる人物だ。日米修好通商条約の無勅許調印や安政の大獄と呼ばれる弾圧を行なった人物として厳しく評価される一方、開国の恩人と高く評価されることもある。大老としての井伊直弼があまりにも有名だが、直弼の45年の生涯の中で大老を務めていたのは亡くなるまでの2年ほどしかない。直弼は大老である前に彦根藩の藩主であり、幕末を代表する大名茶人でもあった。また、跡継ぎとなり藩主に就任する前の17歳から32歳までの青年時代には、政治の世界からは遠くに置かれ、自らが埋木舎と名付けた屋敷でさまざまな文武諸芸に励んだ。今回は、彦根市の歴史資料を収集・調査してきた井伊岳夫氏をお迎えし、井伊直弼ゆかりの品や場所についてお話しいただきながら、その生涯を振り返る機会となった。

井伊直弼、知られていないその人物像

井伊直弼というと幕末の大老。思い浮かぶのは「日米修好通商条約」の調印や「安政の大獄」、「桜田門外の変」といった出来事だ。

「人の第一印象はどう語られるかで変わります。多くの人が井伊直弼と出会うのは日本史の教科書。それだけだとなかなかプラスのイメージを持ちにくいのではないでしょうか」

講師の井伊岳夫氏は現在の井伊家の当主。このセミナーでは普段は彦根市教育委員会で文化財や歴史を研究している井伊氏に、彦根藩井伊家第13代当主であった井伊直弼の生涯について解説していただいた。

「直弼が徳川幕府の大老であったのは2年ほど。今日はあまり知られていないその生い立ちや若い頃、文化人としての側面、そして大老以前の彦根藩主時代も追ってみたいと思います」

彦根藩初代の当主は井伊直政。徳川家康の家臣団の中でも「徳川四天王」とのちに呼ばれる重臣であった直政は、関ヶ原の戦いの後、石田三成の領地であった佐和山18万石を授かる。これが彦根藩の始まり。以来、彦根藩井伊家は徳川将軍家を支える譜代筆頭の大名となり、幕末までこの地を治めることとなる。佐和山から彦根に城を移したのは直政の子の井伊直継。その後、彦根藩は3回に渡る加増を受け30万石の大名となる。琵琶湖畔にあり、京都にも近い彦根は交通の要衝。江戸期において譜代大名の多くは国替えを経験するが、彦根藩井伊家に限ってはこれもなく、このことからも将軍家からの信望を集めていたことがわかる。

直弼が彦根城下の槻御殿(けやきごでん)で生まれたのは彦根藩が始まってから200年以上が経った1815年(文化12年)。父である井伊直中にとっては14番目の男子。齢50、すでに藩主の座から退き隠居していた直中は遅くにできた直弼をかわいがった。母親の富は彦根御前と謳われた美貌の持ち主。富は息子が数えで5歳のときに亡くなってしまうが、その後も直弼は父が他界する17歳までの間、親のもとで不自由のない暮らしを送ったとみられる。

茶の湯、国学、居合……さまざまなものを学んだ青年時代

「直弼の人生は住む場所で見ると大きく3つの時期に分かれます。一つ目は父が亡くなるまでの槻御殿で暮らした時代。二つ目は次期藩主となる32歳まで暮らした埋木舎(うもれぎのや)時代。最後の三つ目は32歳から暗殺される46歳まで、彦根城の表御殿や江戸屋敷で暮らしました」

槻御殿も埋木舎も表御殿も、いずれも堀で囲まれた彦根城内にある。表御殿は天守と同じ内堀の内側。槻御殿は家老級の家臣たちの屋敷が並ぶ内堀と中堀の間。これに対して埋木舎はそれより格の劣る家臣たちが暮らす中堀と外堀の間に位置した。藩から与えられた宛行扶持(あてがいぶち)は300俵。経済的にはけっして豊かではない中、直弼は32歳までの日々をこの埋木舎で過ごすことになる。

「藩主となった兄以外の兄弟たちは、幼くして亡くなった者を除いて他の大名や有力な家臣の養子となって世に出ましたが、直弼にはなかなかその機会がありませんでした。20歳のときに大名家の養子候補となったものの、それも弟に譲ることとなります」

それでも直弼は「へこたれなかった」。この埋木舎時代、直弼は以前から学んでいた禅の他に、和歌や能、国学、居合、茶の湯などを習得し、文化人として成長する。中でも深くたしなんだのが茶の湯だった。茶道具などは自分で考案、製作もし、31歳のときには一派を立てた。『茶湯一会集』という著書の中では自身の茶の湯の思想を「一期一会」という、今につづく四字熟語で表現してみせる。この埋木舎時代に詠んだとされる歌に「世の中を よそに見つつも 埋木の 埋れてをらむ 心なき身は」という歌がある。

「これを詠んだのは埋木舎に移った頃。自分は世間からは見捨てられたような境遇であり、ものの情趣を捨ててしまったら埋もれてしまう。だからこそここで風流心を磨き、学問・修養を積むのだ、と言っている。当時の直弼の心境がよく表われている歌ですね」

藩主から大老へ、多忙な中で忘れなかった家族への愛

そんな直弼が兄の死によって彦根藩主となったのは36歳のとき。まず行なったのは前領主の兄、直亮が残した金を家来や領民に分配すること。当時の藩の収入1年分に匹敵する大金を分け与えた後は、領内を端々、村方まで巡見する。巡見中は困窮している領民たちに福祉を施し、民心を掌握。藩校の改革や藩の経営していた湖東焼の生産にも力を注ぐ。そして1858年(安政5年)、幕府の大老に就任。「日米修好通商条約」の調印という重大な決断をするに至る。当時の日本はペリー来航から5年、現実的な考えの持ち主だった直弼は、ペリー来航時に幕府に提出した意見書において「まずは開国して富国強兵を行ない、外国と互角になって必要があれば、また鎖国をしよう」との考えを示していた。天皇の勅許も重視したが、最終的には勅許を待たずに条約に調印することになった。そのため、条約調印後、幕府を批判する天皇の命令書、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)が直弼に反発する水戸藩に下ることとなる。御三家とはいえ一大名である水戸藩に、朝廷が幕府をさしおいて直接命令するのは、秩序を破る大問題。これが原因となり、関わった水戸藩の家臣や反幕府の政治活動家が捕らえられたのが「安政の大獄」だった。

「あまり注目されていないけれど、『安政の大獄』も『桜田門外の変』もキーとなるのは『戊午の密勅』です。実はこれが出されたあと、幕府と朝廷は交渉をし、天皇の心のわだかまりは氷解していた。その文書も残っていますが、将来再び攘夷を行なうとされたので公表できなかった。一方で水戸藩も勅の返納を決めていたのですが、勅命を死守しようとする藩内過激派の人たちが江戸に潜伏して直弼を暗殺しようとしたんです」

居合の達人であった直弼も「桜田門外の変」では銃弾に射抜かれ命を落とす。直弼の死後、政敵である一橋慶喜が権力を握ると彦根藩は領地の内10万石が減封される。そうした事情からか、大政奉還後は譜代筆頭ながら朝廷方に加わり、その汚名を晴らすこととなる。

無念の死を遂げた直弼だが、晩年の「あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世に心を くだきぬるかな」という歌には埋木舎時代にはない充実感が漂っている。研究が進んでいる今、その人物像は公平に再評価されるべきだろう。

セミナーの最後は「直弼の家族愛」。直弼は多忙な身になっても茶会だけは家族と過ごした。「そこには5歳で母を亡くした直弼の家族を大切にしようという気持ちがあったのではないでしょうか」と井伊氏は語る。

母親から戦争体験を聞いて育ったという井伊氏の「夢」は「当たり前の生活が当り前にできる平和な世界ができること」。

「今年は直弼の生誕200年。多くの方に彦根に来ていただけたら幸いです」  

講師紹介

井伊 岳夫(いい たけお)
井伊 岳夫(いい たけお)
彦根市教育委員会事務局文化財部文化財課歴史民俗資料室副主幹
1969年三重県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学(国史学専攻)。1998年に彦根市に奉職し、同年から市史編さん室にて『新修彦根市史』(全12巻)の編さん事業に従事。現在は文化財課歴史民俗資料室にて彦根市内の歴史資料・民俗資料の収集・調査のほか、収集した資料の公開・活用、講演や展示などを通じた郷土の歴史の啓発活動などを担当。