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イベントレポート

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2015年10月18日(日)13:30~15:00

橋田 壽賀子(はしだ すがこ) / 脚本家

旅といっしょに生きてきた
~旅も人生も、その過程が面白い~

2015年3月4日にオープンしたd-labo静岡。今回はオープンから半年を記念し、国民的ドラマの脚本家である橋田壽賀子先生をお招きし、人生をイキイキと楽しむヒントや旅のエピソード、脚本が生まれるまでの裏話などをトークショー形式でお話しいただいた。
橋田先生は、現在、静岡県熱海市にお住まいで、静岡市には駿府城や日本平動物園へ遊びにいらっしゃったこともある。静岡の名産品である桜エビは、冷蔵庫に常備し、玉子焼きや炒め物、かき揚げなどにして召し上がるほど好物。90歳とは思えない元気なお姿と軽快なトークで会場を笑いの渦へ誘ってくださった。また後半は橋田先生への質問タイム、終了後は写真撮影タイムもあり、静岡県内各地から駆けつけた参加者と交流を深められた。

不遇の時代を経て、盟友・石井プロデューサーとの出会い

一人っ子だったという橋田先生は、子どもの頃から友だち付き合いが苦手で、いつも一人で本を読まれていたのだという。戦後間もない1949年、早稲田大学在学中に松竹の脚本部への入社試験を受け見事合格。1600人ほどの応募者のうち合格したのは50人で、その後半年の養成期間で25人に減らされ、さらに半年の養成後にはたった6人しか残らなかった。
しかし、そんな難関を突破したにも関わらず、当時はまだ女性蔑視がひどい時勢だった。

「不遇の時代でしたね。10年間『女なんかに脚本が書けるもんか』と言われ続け、最後にはお茶汲みをさせられる秘書室へ移動。それで辞めちゃったの。」

仕事を辞めたものの、すでにご両親は亡く、食べるものにも困る貧しい世の中。脚本を書いてはテレビ局に懸命に売り込まれた。テレビはまだ流通し始めの頃で、まだあまりイメージがよくなかったのだとか。昔の仲間からは「あいつもとうとうテレビなんかで書くようになったんだ」と軽蔑されたという。ところが時を同じくして、皇太子殿下の成婚パレードがテレビで放映されて話題に。

「戦時中の生まれだから天皇陛下は雲の上の存在で、こんなに近くで陛下が観られるなんてテレビって本当にすごいなって感動したの。」

これからは絶対にテレビの時代だと思い、ますますテレビドラマ脚本の執筆へ打ち込まれた。そのうちにTBSで『七人の刑事』の脚本を担当するようになり、TBSのプロデューサー・石井ふく子氏の目に留まる。「東芝日曜劇場」で『袋を渡せば』を書き終えてのち、石井氏からは大島みち子・河野実著『愛と死をみつめて』の脚本執筆を勧められた。

「1時間の放送枠なのに、書いてみたら2時間の話になってしまって。石井さんからも1時間でなければ困ると言われたけれど、これくらいないと原作者の気持ちが伝わらないと石井さんに言ったの。」

石井氏も脚本を読んだあと「これは確かに2時間必要ね」とスポンサーの東芝へ掛け合う。
東芝側もはじめは難色を示していたが、石井氏が「それなら他のスポンサーへ」と言うとしぶしぶOKを出す。この件を機に石井氏との絆が深まったという。

「石井さんとはまるで姉妹のような関係。ときには喧嘩をすることもあるけれど、お互いを決して裏切らないの。」

東芝日曜劇場を始め、橋田先生の代表作の一つでもある『渡る世間は鬼ばかり』など、石井氏とタッグを組んだ作品を数多く世に送り出していく。

家族問題を描いた、数々の作品誕生秘話

橋田先生の作品といえば、家族の問題を描いたTBSの『渡る世間は鬼ばかり』や、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』などが有名。これらの作品は一体どうやって生まれたのだろうか。

まずは『おしん』の名シーンから。橋田先生は、戦後の焼け野原の大阪で食べ物に困り、いつもお腹を空かせていらっしゃったという。そんな時、疎開していた叔母から「ここなら食べ物がある」と聞き、汽車に揺られ、遠く山形へ。

「身を寄せた材木屋のおかみさんから、昔は奉公へ行く際、船だとお金がかかるから筏(いかだ)を組んで川を下ったという話を聞いて。いつかこのエピソードを使った話を書きたいと思い、心に留め置いていたの。」
これが『おしん』の代表シーンとも言える、両親が奉公に出すおしんを見送る川下りのシーンへとつながったのだ。

また、『渡る世間は鬼ばかり』の脚本の執筆には、実は少々目論見を持たれていたようだ。
「主人の遺言で『橋田文化財団』を創設して後世にいいものを残して欲しいと言われたの。だけど、お金が足りなくて。」
TBSから「連続ドラマの脚本書いたら足りない分を出すよ」と言われ、『渡る世間は鬼ばかり』を執筆された。(※橋田文化財団は「橋田賞」を創設し、1993年より毎年日本の放送文化に貢献したテレビ番組や個人に賞を贈っている)
『渡る世間は鬼ばかり』はさまざまな家族構成で成り立っており、嫁姑問題・兄弟問題・相続問題などの身近な問題を取り上げることができる。
「両親を亡くし、兄弟もいなかったから私は家族をよく知らなかったの。でもね、結婚していろいろなことを知ったの。」

橋田先生のご主人はTBSプロデューサーだった故・岩崎嘉一氏。馴れ初めの話がまた面白い。
「プロデューサーと喧嘩したときに、あぁ、もうやだなぁって思って。そうだ!結婚したらお給料持ってきてもらえる!なんて思ったのよ。テレビ局なら給料がよさそうと思って探してみたの。」
候補の独身男性は3人いて、ひとりは母親と2人暮らし、ひとりは喘息持ち、もうひとりはお酒好き。
「それだったらお酒好きの人が一番いいと思い、石井さんに『私、あの人好きなんだけど。紹介して』と言ったんです。『紹介してくれなければ脚本書かない!』と駄々をこねて。でも内心は永久就職したかっただけなの。」
当の岩崎氏は「結婚してもいいけど、絶対にぼくの前では原稿用紙を広げないで欲しい」と条件を出されたのだとか。
「結婚したら子どもを産んで、仕事はしないつもりだった。でも子宝に恵まれなくて…。」
岩崎氏のいない間を縫って脚本執筆をされていたが、ある日、岩崎氏が連絡なしに朝帰り。
怒って一番いい背広をビリビリに破いてしまったという。
岩崎氏も悪いと思ったのか、それからは「いつでも原稿を広げてもいいよ」と言ってくれるようになったのだとか。
また、岩崎氏は家にもよく仕事仲間を連れて来られた。そのときに精一杯もてなしたおかげで、のちに彼らを通して仕事先が広がったという。

岩崎氏の実家は沼津にあり、母思いの岩崎氏は橋田先生を連れて休みのたびに訪れていた。
そして沼津から近いところにと熱海に居を構えることになる。しかし当時は嫁の立場が弱く、婚家のしきたりには従わなければならない時代。何かあるたびに義母や義姉から「東京の嫁はすぐ口答えする」「東京の嫁は何もしない」となじられた。こういった経験からNHK銀河テレビ小説『となりの芝生』や『おしん』が生まれたのだった。

橋田先生にはポリシーがある。
「私は絶対、不倫と人殺しの話は書かない。私は家族の問題を書き続けたい。」
その時代時代の家族の話を自分の言葉で綴りたい。台詞が長く俳優泣かせとしても知られる橋田先生の作品は、家族や社会に対する想いがぎっしり詰まっているのだからそうなるのも必然だろう。

人生は旅と過程が大事。そして初心を忘れずに

橋田先生は2015年4月に『旅といっしょに生きてきた~人生を楽しむヒント~』を上梓された。そこで橋田先生に旅を楽しむヒントをうかがった。

Q.「日本中はもちろん、南極から北極まで世界各国を旅されていると伺っています。思い出の場面をお教えいただけますか?」
A.「旅好きになったのは、戦後間もなくの大阪から山形への旅がきっかけ。季節はちょうど秋。山形には一面に黄金の稲穂が広がっていたの。(大阪は焼け野原で何もなかったから)旅ってすごいなって感動して。それで旅が好きになったというわけ。一番記憶に残っている旅は、まだ米国の占領下で渡航にはパスポートが必要だった沖縄旅行。鹿児島まで汽車で行って、そこから船で沖縄へ。現地では『大和人(やまとんちゅう。本土の人のことを沖縄ではそう呼ぶ)は苦労を知らねぇ』と散々言われ、あまりいい思いはしなかったから、もう二度と行かないと思ったけど。今は贅沢できて過ごしやすいところになったね。南極のクジラが通るような氷山の海をボートで行き、山のようなペンギンを見た。ほかにもダチョウに求愛されてしまったこともあるんですよ。私の目前で野生のダチョウが求愛のダンスをしたんです。びっくりしましたね。今年(2015年)の冬には再度南極行き、そこからブラジル・リオデジャネイロのカーニバルを観に行く予定です。」

Q.「船の旅が多いそうですが、船の魅力はどういうところでしょうか?」
A.「飛行機は税関や手続きが面倒。だから旅はいつも船で行くの。年齢的に荷物はたくさん持つことができないので、宅配便を利用し、持つのはハンドバッグ一つ。船だと荷物も簡単に送れるのよ。家だと歩かないけれど、船内は広いから食事をするにも歩かなければいけないので、健康にも良いわ。そして時間もたっぷりあるから、そこで原稿を書くの。船で書いた作品はたくさんあって、2010年にTBSで放送された『99年の愛~JAPANESE AMERICANS~』もその一つなの。」

Q.「90歳とは思えないくらいお元気でいらっしゃいますが、健康の秘訣をぜひお聞かせく ださい。」
A.「元気そうに見えますが、90歳の体はかなりつらいことが多いんですよ。背中を2回大手術していますし、骨もすかすかな状態。バトミントンをやっていたのだけど、50歳のときには膝も悪くしてしまいました。そのとき主治医が『泳いだ方がいいよ』と元オリンピック選手の木原光知子さんを紹介してくださり、トレーニングしていただいていました。それで水泳を始めたんですが、今も週3回、トレーナーにお願いして個人トレーニングしてもらっています。お金はかかってしまいますが、命にはかえられないので。浮きながら悠々と泳げるので、背泳ぎなら今も1kmは泳げますよ。休むとほかの方に話しかけられてしまうから、ずっと泳いでいます。」

Q.「最後に会場のみなさまへメッセージをいただけますでしょうか。」
A.「初心を忘れない。それを大事にしているの。自分をおごらせない。初めて自分の脚本がドラマになったときの嬉しい気持ちや、主人と一緒になったときのありがたいと思った気持ち、初めて沖縄へ旅したときの気持ちを忘れないようにしているの。人生は旅と過程が大事。自分で選んだ道をしっかり乗り越えていかなければいけないのよ。それには我慢も必要。」

橋田先生のお話は「夢は追い続ければ必ず叶う」ということを強く感じさせていただいた。
そして改めて橋田先生の作品を見直したくなった。橋田先生の長台詞に込められた数々のメッセージを、改めて読み解いていくのも面白そうだ。

文・河田 良子

講師紹介

橋田 壽賀子(はしだ すがこ)
橋田 壽賀子(はしだ すがこ)
脚本家
1925年5月10日生まれ。1949年に松竹へ入社後、脚本部所属となるが、1959年には松竹を退社し独立。1964年「袋を渡せば」で作家デビュー。その後は「愛と死をみつめて」「時間ですよ」「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」など後世に残る話題作を数々生み出す。1922年には橋田文化財団を設立後、理事長に就任し橋田賞を創設。1988年には紫綬褒章、2004年には勲三等瑞宝章を受章。