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イベントレポート

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2015年10月27日(火)19:00~21:00

中田 一郎(なかた いちろう) / 中央大学名誉教授・古代オリエント博物館館長

ハンムラビ法典とその現代的意義

ハンムラビ法典は、バビロン王ハンムラビの治世(在位、紀元前1792-1750年)の終わり頃に作られた。ほぼ完全な形で残っている法典としては世界最古と言える。この法典碑は、1901~1902年にフランスの発掘調査隊によって、イランの南西部にあるエラムの古都スーサで発見された。今回は、法典碑がバビロンではなくスーサで発見された理由、法典の構成、法典作成の意図、法典から垣間見る当時の社会、そして、今から3700年以上も前に作られた法典から現代に生きる私たちは何を学ぶべきなのか、お話しいただいた。

敵国の「戦利品」となっていた「ハンムラビ法典」

24回目となった『アレクサンドリア図書館』シリーズの講師は、池袋サンシャインシティにある古代オリエント博物館の館長である中田一郎氏。今回のセミナーでは、紀元前1792年から1750年にかけてバビロン王国を治めていたハンムラビ王がつくらせた「ハンムラビ法典」をテーマに、その概略や作成意図、法典を通して垣間見える古代バビロニア社会の有り様や現代的意義についてお話していただいた。

「目には目を、歯には歯を」というフレーズでよく知られている「ハンムラビ法典」。アッカド語の条文が刻まれたこの「法典」碑が発見されたのは1901~1902年。場所はイラン南西部にある古代国家エラムの都市スーサの遺跡。3つに割れていた石碑は1901年に2つの断片が発掘され、翌1902年に残る1つが掘り出された。復元された石碑はすぐにパリに運ばれ、その年のうちにアッカド語に詳しいV・シェイル神父によってフランス語に訳され出版された。興味深いのは、本来石碑が置かれていたと思われるバビロンまたはシッパルとスーサの位置関係。バビロンあるいはシッパルがあるのは現在のイラク。対してスーサは約400キロメートルも東に離れたイランにある。
「どうしてスーサで石碑が発見されたかというと、紀元前12世紀の半ば頃、今から3000年以上前に、エラムの王様がバビロニアに攻め込んだんですね。そのときに戦利品としてハンムラビ法典碑を持ち帰ったのではないかと言われています」

発見当時は「世界最古の法典」と騒がれた「ハンムラビ法典」。その後、「ウルナンム法典」や「リピト・イシュタル法典」、「エシュヌンナ法典」など、それより古い法典が発見されたため「世界最古」ではなくなったが、オリジナルの法典碑がほぼ完全な形で残っているのは「ハンムラビ法典」のみ。実物はパリのルーヴル美術館が所蔵。日本でも2000年に開催された「四大文明展」で展示。海外ではこれが初の展示だったという。

「ハンムラビ法典」の作成意図

写真で見ると、黒々とした石碑は高さ2.25メートル。玄武岩製。「ハンムラビ法典」について書かれたものなどを読むと、「閃緑岩製(せんりょくがんせい)」という記述が目につくが「これは間違い」。「最初にシェイルが翻訳したときに閃緑岩と書いてしまったんですね。だけど後になって岩石の専門家が鑑定したら玄武岩であることが判明したんです。」

表面の上部には椅子に座る正義の神シャマシュとその前に立つハンムラビのレリーフ(浮き彫り)がある。シャマシュは角のある冠を被っていて神であることを表している。余談ながら、「アメリカの下院議会の回廊には、この神様の方をハンムラビと勘違いして造ったレリーフがある」という。
表面、裏面にびっしりと刻まれた碑文は「前書き」と「条文」と「後書き」から成っていると言われるが、今回は「違う説明をしたい」と中田氏。「『ハンムラビ法典』は、実際には全体を5つに分けることができます。まずは、〈神々によるハンムラビの召命〉、次いで〈ハンムラビによる職務遂行〉が述べられます。「条文」はこの〈職務遂行〉の部分に組み込まれています。そこに書かれている事柄からハンムラビ法典の作成意図が読みとれます。」

ハンムラビを「召命」した神は、諸神の王アヌム神と天地の主エンリル神。2人の神々はバビロンを創造し、バビロンの主神マルドゥクの王権を確立する。そのとき神々は「ハンムラビ、敬虔なる君主、神々を畏れる私を、国土に正義を顕わすために、悪しき者邪な者を滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝きいで国土を照らすために、人々の肌(の色つや)を良くするために、召し出された」。これに対し、ハンムラビは自分が職務を遂行したことを「北や南で敵を根絶」し、「居住地の人々を安全な牧草地に住まわせ」と述べ、「282条」の条文について「有能な王が確立し、国民に真にして善なる道を歩ませようとした正しい判決である」とその有効性を説いている。

誤解されがちな「目には目を」。実は「やり返す」のではなく「償い」

シェイルの翻訳した条文は第282条で終わる。そのため、一般にハンムラビ法典は「282条」からなると言われるようになった。ただこれは「正確ではない」。石碑表面下には削られた部分もあり、シェイルも「ここにいくつの条文があったかわからないので裏面の最初を101条とし、以下順次番号をつけただけ」だという。
注目すべきは、ハンムラビ自身はこれを「法典」とは呼ばずに「判決」と言っているところだ。「法典と聞くと私たちは『六法全書』みたいなものを想像しますけど、「ハンムラビ法典」はそういうものではありません。研究者の意見では、「ハンムラビ法典」は裁判に携わる者が参考にする一種の手引書だということになっています。」

実際、出土しているバビロニアの裁判文書にも「ハンムラビ法典第何条によってこの者を死刑に処す」といった記述はない。とはいえ、おそらく当時の学者がさまざまなケースを想定して書いたであろうこの「判決」には、現代の私たちにも参考になるものが多い。20年ほど前、中田氏が法律関係の論文などを集めたデータベース(Lexis)で「『ハンムラビ法典』と入れて検索すると300くらいの項目が出てきた」という。3700年以上も昔につくられた「ハンムラビ法典」。しかしそこには「今の私たちにも役立つことが多いのではないでしょうか」。

当時のバビロニアは階層社会。エリート層の上層自由人(アウィールム)と一般自由人(ムシュケーヌム)、それに奴隷からなっていた。「ハンムラビ法典」の第196条には「もしアウィールムがアウィールム仲間の目を損なったなら、彼らは彼の目を損なわなければならない」と書かれている。「目には目を」というと、「やられたらやり返せ」と聞こえるが、この考え方が適用されるのは、上層自由人同士の場合で、しかも刑を科すのは第三者(複数)であった。それ以外の場合(第198、199条など)は、お金による「償い」であった。「ハンムラビ法典」のなかには、犯罪被害者を市や市長が救済するといった現代の法律の先を行く被害者救済の考え方や、日本では1995年、アメリカでも1970年代に確立されたばかりのPL(製造物責任)法のような先駆的な内容の判決もある。
「こういう『ハンムラビ法典』ですから、現代的意義があると言えるんですね」

中田氏の「夢」は「長く勉強してきた古代都市マリの全体像を書くこと」。
「マリはハンムラビに滅ぼされたユーフラテス川沿いの古代都市です。このマリをみなさんにもわかる形でまとめてみるのが夢です」

講師紹介

中田 一郎(なかた いちろう)
中田 一郎(なかた いちろう)
中央大学名誉教授・古代オリエント博物館館長
早稲田大学文学部卒、同大学文科系大学院修士課程中退。米国シンシナチ市のヒブルー・ユニオン・カレッジ大学院を経てコロンビア大学大学院博士課程修了(Ph.D.取得)。中央大学文学部教授を経て、現在中央大学名誉教授、(公益財団法人)古代オリエント博物館館長。著訳書に『ハンムラビ「法典」』(リトン、2000年)、『メソポタミア文明入門』(岩波ジュニア新書、2007年)、シュマント=ベッセラ著『文字はこうして生まれた』(共訳)(岩波書店、2008年)、『ハンムラビ王』(世界史リブレット)(山川出版社、2014年)などがある。専門は古代メソポタミア史。