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イベントレポート

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2016年1月28日(木)19:00~20:30

細矢 隆男(ほそや たかお) / 日本骨董学院 学院長

たのしい古美術・骨董Ⅱ ~伊万里磁器を楽しむ~

これから古美術・骨董を学んでみたい、趣味として楽しみたいという方のために、日本美術とその楽しみ方に重点を置いたセミナーを全2回に渡って開催。第2回の今回は、①本物と贋物の見分け方②江戸時代に咲いた伊万里というやきものについてお話しいただいた。

「初期伊万里」の特徴は「横から見ると曲がっているところ」

細矢隆男氏による『たのしい古美術・骨董』の2回目は「伊万里磁器を楽しむ」。今回は「古伊万里」と呼ばれる江戸時代の伊万里磁器を見ながら、その誕生の背景や変遷を追ってみた。

前回のセミナーでも説明したように、日本の焼物には「土器」に「須恵器(焼締め)」、「陶器」、「磁器」の4種類がある。磁器が他の焼物と違う点は「石」で出来ている点と、窯で焼く際に1,300~1,350度という高温を要するところ。そのため完成品は「非常に硬い感じ」の焼物に仕上がる。

日本で磁器の生産が始まったのは江戸時代初期。その第一号の産地が他ならぬ伊万里だ。この当時の伊万里は鍋島藩(佐賀藩)の領地。伊万里焼誕生の背景には、鍋島藩の苦しい経済事情があったという。
「鍋島藩は関ヶ原の合戦では母を人質にとられたこともあって敗れた側の西軍に属していましたが、本質的には徳川に逆らわなかったことが幸いして取り潰しはまぬがれました。ただ、莫大な戦費を長崎の商人に借りていたため借金に苦しんでいたんですね」
借金を返済するには産業を育成して藩を豊かにしなければならない。そこで目をつけたのが焼物だった。領内には秀吉時代の朝鮮出兵の際に半島から連れて来た朝鮮の陶工たちが暮らしていた。そのなかの李参平が、有田の泉山に朝鮮のものと同じ原料があることを発見し、日本では初となる磁器を焼き始めた。

ここで「初期伊万里」と呼ばれるそれらの磁器を画像で鑑賞。この「初期伊万里」の特徴は「横から見るとぐにゃぐにゃと曲がっていたり歪んでいたりするところ」だ。
「泉山に原料を見つけたとはいえ、朝鮮と日本の土では似ているようで似ていないんですね。当時は窯で焼くにも薪しか燃料がない。温度管理も難しかったし、作りなれていない土で作ったためか、なかなかうまくいかなかったようです」

ほかの特徴は高台が小さい点や、厚みがある点。高台が小さいのは「焼くときに地面に置いたため」。窯の空気に比べて温度の低い地面に接した部分は生焼けになるおそれがあるので、そこに接する高台はなるべく小さく作られた。また、大量生産に不可欠な重ね焼では、釉薬が溶けて磁器同士がくっつくのを防ぐために「砂目積み」という間に砂を敷く製法を用いていた。小さな高台はこうしたときにも便利だった。

ヨーロッパから求められた伊万里磁器

モニターには「初期伊万里の傑作」である「菊図布袋文菱形皿」が。これは中国陶磁器を真似たもの。名称のとおり皿の内側には布袋様が描かれている。周囲は菊の文様。菱形という形も「初期伊万里」には多いという。もうひとつ、「初期伊万里」では当時茶人たちに人気のあった「侘び寂び」を感じさせる古びた味わいを持つ製品も、「儲かりそう」ということから多く作られたという。一方、よく見かける巴紋などにも「初期伊万里」には独特の特徴がある。
「初期伊万里の巴紋は元禄の頃の物などと比べると頭がちっちゃいんですね。ですから、初期伊万里と称して頭の大きな巴紋が出て来たらそれは偽物ということです」

つづいては「初期伊万里に色がついた」という「古九谷」の色絵皿。現在では化学分析で判明しているが、従来、加賀で焼かれたと考えられていた「古九谷」の色絵皿は、実は有田が産地の伊万里焼。魯山人がこよなく愛したというこの「古九谷」には、やはり亀甲紋(きっこうもん)など中国陶磁器の影響が見られる。

古伊万里といえば人々がイメージするのは「白磁」だ。色を塗ると映える白い素地は職人たちが努力を重ねて実現したものだ。ところが古伊万里の中にはあえて素地を赤くしたものが見受けられる。それが「美濃鉄釉小皿」。これは美濃の鉄釉が高く売れていることを知った伊万里の人々がそれを真似て作ったもの。今は芸術品扱いされている古伊万里もその頃の鍋島藩にとっては借金返済のための大事な商品。この一事を見ても、産業として伊万里焼を発展させようという藩の姿勢が窺える。他にも歌舞伎の緞帳を思わせる粋な絵柄のものや、毒殺防止を想定したのか銀彩のついたものなども「古九谷」にはある。

目に鮮やかなのは「輸出の前段階」という「初期色絵柿衛門様式芙蓉手皿」。以後、古伊万里は外人好みの「図柄がびっちり埋まった中国陶磁器に似た」ものが増えていく。その裏側にあったのは中国大陸の政情。この時代の中国は明朝から清朝へと王朝が変わる混乱期にあった。そのため陶磁器生産が減少し、かわりにヨーロッパへの輸出品として求められたのが伊万里焼だったという。

古伊万里を買うなら今がチャンス

伊万里の技術が「いちばん上がった」のがその後の延宝時代(1673~1681年)。この時代の特徴は、青い二重線で囲まれた皿の真ん中が空白となっていること。絵柄にはグラデーションのきいたものも多く、めりはりを感じさせる。素地と色絵のバランスがとれていて気品を感じさせるものが多いのが延宝時代だ。これが次の元禄時代になると「真ん中に文様が細かく入ってくる」。いささかやり過ぎた感じもするが、その文様に手間がかかっていれば、それはこの時代の「名品」だ。

ヨーロッパでも人気のあった古伊万里は、当然ながら現地でも模倣された。その代表が今も日本人に人気のあるロイヤル・コペンハーゲンのティーカップなどだ。ドイツのマイセンでも、柿右衛門様式は模倣され人気を博した。そのためそれを輸出していたオランダの東インド会社は衰退の道を辿ることになった。

古伊万里の「最高傑作」のひとつとして紹介されたのは「金襴手古伊万里様式松竹梅文変形皿」。元禄時代に作られたこの変形皿は真ん中に龍、三方に松竹梅、そして鉄釉の口紅が入っている。注目すべきは、裏側にも同じ松竹梅の文様が入っているところだ。 高価なイメージのある古伊万里だが、実は「ブームが一段落した今は値段が下がっているので買いです」と細矢氏。買うときの鉄則は「ひとつでも怪しいと思ったら買わないこと」。傷の方向が一定なら、それは後からつけたもの。また古伊万里は「歪んでいる」のが本物の証だという。

細矢氏の「夢」は「エジプトに端を発したのではないかと考えている仏教哲学の源流を探る」こと。
「まずは身近でわかりやすい仏像、仏教美術の見方などから始めたいと思っています」

講師紹介

細矢 隆男(ほそや たかお)
細矢 隆男(ほそや たかお)
日本骨董学院 学院長
東京都生まれ。18歳で刀剣鑑定の勉強を始める。早稲田大学第一文学部独文科へ進学後、茶道 部、古美術研究会に入部。刀剣のほか個人的に絵画・仏教美術・陶磁器・エジプトを含めた西洋アンティーク等多方面の古美術の研究を始め、文学・哲学・音楽などへのアプローチから世界的な美術・芸術の交流に強い関心を持つ。その後、出版社2社の代表取締役を歴任しつつ1989年から4年間、骨董・古美術の露天商を経験する。1994年より青山にて古美術店を経営するとともに、「日本骨董学院」を設立、骨董・古美術の一層の普及を目指して現在に至る。
東洋陶磁学会会員、日本山岳修験学会会員、日本美術刀剣保存協会会員、全刀商会員