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イベントレポート

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2016年2月12日(金)19:00~21:00

長谷川 奏(はせがわ そう) / 考古学者

アレクサンドリア後背部湖沼地帯の考古学
-ウォーターフロントにおける生活の知を求めて-

アレクサンドリアはヘレニズムを代表する国際都市であり、歴史文献も多く残るために厚い研究蓄積があるが、後背部の湖沼地帯は生産性の低さから大きく見過ごされてきた。長谷川氏たちが研究を進めているコーム・アル=ディバーゥ遺跡は、低地に営まれた砂丘集落であり、この2年間の地表面探査によって驚くべき構造が浮かびあがった。今回のセミナーでは、古代の人々が厳しい自然環境といかに向き合ったかを推測し、今後の発掘によって、従来の地域イメージを変えるどのような生活文化像が得られるか、デルタ考古学の醍醐味をお話しいただいた。

ナイル流域とは違う湖沼地帯での古代エジプト人の暮らし

毎回好評の「アレクサンドリア図書館シリーズ」。26回目の今回は長谷川奏氏を講師にお招きし、これまであまり注目されることのなかった「アレクサンドリア後背部湖沼地帯の考古学」についてお話していただいた。
テーマとなった「アレクサンドリア後背部湖沼地帯」とは、文字どおり「アレクサンドリアの後ろにある湖」のこと。
「エジプトのイメージからはミスマッチかもしれませんが、実はエジプトには地中海沿岸に湖がたくさんあります」
それらの湖は、衛星画像や古い地図などを見ると現在よりもはるかに広かったことがわかる。そこには古代から人々の生活があった。古代のエジプト人の暮らしというと、〈エジプトはナイルの賜〉という言葉が示すように、壁画に見られるナイル側流域の豊かな農業をベースにした生活が想像されるが、実際には地域によってさまざまな暮らしがあったと考えられる。この仮説をもとに長谷川氏が研究対象に選んだのは、ナイル川デルタ地帯の西方、アクレサンドリアからは東に約30kmほど離れたイドゥク湖付近にあるコーム・アル=ディバーゥ遺跡。セミナーでは7年前から自然環境の復元を進め、この先はいよいよ発掘を、という段階にまできたこの遺跡に迫ってみた。
まず知っておきたいのは、自然環境としてのイドゥク湖周辺の歴史。写真で見ると「湖がたくさんあって景色のいいところ」だが、長谷川氏によると耕作地としては「致命的なマイナスポイントがあった」という。
「というのも、この地域には紀元前の5000年か6000年頃の気候が温暖なときに海の水が大量に押し寄せてきてしまったんですね。そのため土壌に塩分を多く含む不毛地帯となり長らく灌漑が行なわれてきませんでした」
だが一方で、19世紀半ばにつくられた地図を見るとこの地域にはヘレニズム時代の痕跡を持つ遺跡が多数存在する。そうなると「ここに住んでいた人たちはどうやって日々の生活を営んでいたのか」という疑問が湧く。

生活の鍵は「生業複合」

そこで長谷川氏の研究班が最初に取り組んだのが地形の調査。東西南北で見ると、このエリアは南北方向に起伏が多く、東西はほぼ平坦になっている。北は地中海から始まり、そこから南に下ると砂丘があり、湖があり、その対岸にも砂丘があり、それを下るとまた湖がある。海に接する北側の湖は塩水で、南側の湖は淡水。ときにはナイル川の氾濫もあっただろうから、人々が住むとしたら標高の高い砂丘の上ということになる。ボーリング調査による地質調査では、3200年前の時点で遺跡周辺の湖はすでに淡水化していたと判明。規模はいまよりもずっと大きく、遺跡のすぐ目の前に内湾の入江があったとうかがわれる。ただし、ナイル流域のような集約的農業は不可能。植えられるとしたらウリ科やゴマ系の作物くらいだったと思われる。
「具体的には、この地域の人々は農作物を細々と作りながら、魚や水鳥を獲ったり、泥を使って煉瓦や焼物を製造したり、小舟で輸送業を営んだりと、生業複合の形で暮らしていた。そう考えることができます」
遺跡自体の調査は「高精度の測量」からスタート。そして機材による磁気探査をしたところ、砂丘の上に住居や家畜小屋と思わしき「びっしりと並ぶ建物」の跡が見つかった。さらに建築探査を進めてみると「丘の中腹域に不思議な煉瓦の列を発見」した。分厚い煉瓦の壁は「大事なものを囲った周壁」。調べるとやはりその上にナオス(祠)と思われる建物の基礎があった。煉瓦の規格などからすると、これはおそらくは紀元前4世紀から紀元1世紀までの「プトレマイオス朝時代の神殿ではないか」。前述の「びっしりと並ぶ建物」はこの神殿の周辺に位置し、こちらは考古学探査で発見された焼物などから「紀元後1世紀から3世紀頃の住居」であると推測された。それらの事実から浮かびあがるのは「まず丘のいちばん高いところにナオスを持つ構造体があり、そのまわりを村が囲んでいたという典型的な神殿周域住居」だ。
おもしろいのは、これが丘の南側の低い場所の住居跡に行くと「丘の上よりも後の紀元4~7世紀のビザンツ時代のもの」へと変わること。そこにあるのは「集落は変わらず存続していくものの、何らかの小さな断絶があったのかも」という可能性だ。
「社会不安に直面したときなど、人々が一時期村から近隣の大都市に避難する、あるいはまたそこから帰って来るといったことがあったのかもしれません」

ファラオの時代からビザンツ時代まで

さらに調査を進めると丘の北側には港湾らしき施設の遺構も発見。そして驚くべきことに微地形測量で見ると、ナオスを持つ神殿の下にさらに一辺が150メートルほどの四角い前身遺構があるようにも思われ、遺構は「四隅が出っ張っている」ように考えられる。長谷川氏たちが思い当たったのは「要塞」。紀元前16世紀から11世紀の新王国時代、エジプトはリビア側からの外敵の侵入に備えて似たような要塞群を各地に配置した。だとすれば、これはそうした「ファラオの時代」のものかもしれない。
「ファラオの時代のこの地域はただの沼沢地でしたが、軍事的には地中海に面した重要な防衛戦だったという可能性も視野に入れたい。そこで要塞が造られたのかもしれません」
このファラオの時代の前身遺構を0期とするならヘレニズム期のナオスを有する神殿はⅠ期、ローマ時代の神殿周域住居はⅡ期、ビザンツ時代の住居はⅢ期という分け方ができる。セミナーの最後で長谷川氏が見せてくれたのはローマ時代のこの地の想像図。そこには湖や港に浮かぶ船やそれを見下ろす神殿や村が描かれている。あったのはアレクサンドリアという「首都圏」に隣接した低地の「非常に豊かな経済ネットワーク」だ。今後発掘が進めば、それはさらにはっきりと解明され、これまでのエジプト考古学に「砂丘集落」という新たな視野を提供するに違いない。またこの調査からは「自然環境復元と生活文化復元の重要な接点が検出」されてもいる。これもまた従来の考古学に一石を投ずるものとなるはずだ。
長谷川氏が専門としているのは「ファラオという輝かしい時代の後にやって来る時代」。
「夢は、あまり馴染みのないこの時代をみなさんにおもしろく感じていただけるようにすること。そうした研究をしたいですね」

講師紹介

長谷川 奏(はせがわ そう)
長谷川 奏(はせがわ そう)
考古学者
愛知県生まれ。2011年から4年間日本学術振興会カイロ研究連絡センター長を務め、現在、早稲田大学総合研究機構客員教授。専門は、古代末期社会の考古学。古代オリエント世界からイスラーム世界に移行する文明史のダイナミズムを、両者のはざまにある地中海文明の変質過程から考察する。著書に、『<図説>地中海文明史の考古学-エジプト・物質文明の試み-』(彩流社)などがある。