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イベントレポート

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2016年3月10日(木)19:00~20:30

井上 博(いのうえ ひろし) / 元ANAキャプテン

夢のその先に夢
~夢の操縦桿をにぎるのはあなた~

「ぼく、操縦桿を握ってみるか?」「えっ、いいんですか!!」「手前に引くと上昇、前に押すと降下。さあ」機長は副操縦席の飛行機マニアの少年に操縦を任せた。「ぼく、才能があるよ。将来パイロットになれよ」「はい、パイロットになります!」
少年時代の井上氏が「夢」をはっきりと意識した瞬間(チャンス)だった。その10年後...、夢を叶えANAパイロットとして「YS-11」「ボーイング727」「ボーイング747-400」の操縦桿を握ることとなった。
本セミナーでは、元ANAパイロットの井上氏にパイロットの仕事の魅力や夢を追い続けることの素晴らしさについてお話しいただいた。

自社養成で全日空のパイロットに

1903年のライト兄弟による初飛行から113年、航空機はプロペラ機からジェット機へと大きく進歩してきた。講師の井上博氏は全日空(ANA)の元パイロット。このセミナーでは少年時代の飛行機との出会いから始まって、45年に及ぶパイロット人生を、往年の名機であるフォッカーF27フレンドシップやYS-11、ボーイング727、「ジャンボ」ことボーイング747などの思い出も交えながら振り返っていただいた。

井上氏は1948年生まれ。パイロットを志したのは「単純に大空を鳥のように飛んでみたいと思ったから」だったという。飛行機との出会いは小学6年生のとき。航空自衛隊で管制官をしていた父に誘われ、遊覧飛行に乗ったことがパイロットという「夢」につながった。
「真っ先に乗り込んだら機長が、ぼくおいで、と副操縦士席に座らせてくれたんです」

座らせてくれただけではなかった。飛行中、機長は少年だった井上氏に操縦桿を握らせ、あろうことか旋回や上昇を体験させてくれた。
「今思えば操縦していたのは機長だったんですけれど、そのときの私は完全に自分が飛行機を操縦したと思いこんでいました」

そんな井上氏に、機長は「ぼく上手だよ。将来はパイロットになれ」と言ってくれた。
そのパイロットになるという「夢」がさらに具体的になったのが高校時代だった。購読していた受験雑誌に「将来の職業特集」というページがあった。さまざまな職業に並んで出ていたのが全日空の副機長の手記であった。搭乗する飛行機は「夢のジェット機」と呼ばれていたボーイング727。「自分もこの飛行機に乗りたい」と思った。切り抜いた記事は勉強机の前に貼った。大学に2年行ったら航空大学に行こう、と決めて受験勉強に勤しんだ。
「それが、新聞で全日空のパイロット募集の広告を見つけたんですね」

そこには「自社養成」という文言が入っていた。お金をもらいながらパイロットの訓練をしてくれる。「こんなにいい話はない」と応募した。一次、二次、三次、四次、五次と「どういうわけかうまくいって試験をパス」した。母には「大学を出ておいた方がいいのでは」と反対されたが、「こんなチャンスはもうない」と入社を決めた。

ジェット機にはないプロペラ機の魅力

入社後はアメリカでの1年間の訓練を含む、計3年間の養成期間を経てフレンドシップの副操縦士に。今でこそ売上高で日本航空を追い抜いた全日空だが、井上氏がパイロットになった1970年頃はまだまだ無名。「日航の子会社?」などと聞かれることも多かったという。
「だけど我々パイロットの意気は高かった。とくに離着陸の技術は自分たちの方が勝っていると思っていました」

これは「考えてみれば当たり前のこと」。この時代の全日空の路線は国内線のみ。国際線と違い1日に何度も離着陸を繰り返すため、パイロットは「当然うまくなる」のだった。
「パイロットの技量は鞍数に左右されます。私でも休暇後にひさしぶりに乗ると緊張したものです」

最初に搭乗したフレンドシップは翼が胴体の上部についている「高翼機」。このタイプの飛行機は窓からの視界を翼が邪魔しないため「下の景色がよく見える」という特徴がある。このフレンドシップやYS-11などのプロペラ機には「ジェット機にはない魅力がある」という。その魅力とは「飛行高度」。
「ジェット機が飛ぶのは高度1万メートルの成層圏。対してプロペラ機は3,000メートルから6,000メートルの対流圏を飛びます」

対流圏は雲が湧きやすく空気の擾乱も激しい。飛行機にとっては「厳しい高度」だが、「天気のいい日は最高」だ。
「日本アルプス越えなんていうのは絶景ルートに変わります」

ボーイング747の機長として世界の空を飛んできた井上氏にとっても「四季のある日本の空は特別」だ。山国である日本は緑が多く、海も美しい。ナイトフライトで目にする関東平野の広大な夜景は「世界でいちばんきれいに見える」という。

眺めがいいプロペラ機に対し、スピードならばやはりジェット機。井上氏が憧れ、後にコーパイ(副操縦士)で4年、機長として5年、計9年間乗ったボーイング727は、上昇性能と降下性能が非常に優れていた名機。大阪ー東京間では26分という記録も残っている。
「私にとって昭和の飛行機といえばボーイング727。旋回半径はそれほどではありませんでしたが上昇下降は素晴らしいスポーツカーのような飛行機でした」

「パイロット冥利に尽きる」、その瞬間とは

井上氏が機長としてもっとも長くつきあったのがボーイング747。この747では機長だけではなく訓練生を指導する教官も務めた。そして2001年の9月にはフライト当日にワシントンで同時多発テロを経験する。
「その日は成田に飛ぶ予定でホテルで迎えの車を待っていました。朝、テレビをつけてみると世界貿易センターに飛行機が突っ込んでいる映像が流れていたんです」

この日から3日間、アメリカの空には1機の旅客機も飛ばなかった。4日目になり、日本行きの2便だけが特別に飛ぶことを許された。1便は井上氏がキャプテンを務める便だった。要人を乗せたANA機は無事成田に着陸した。

多くの人が羨望の眼差しを向ける「パイロット」という職業。その魅力とは「ひとくちで言うと鳥になれる、これくらいしか思い浮かびません」と笑う井上氏。
「どんよりした雨の日でも離陸して厚い雲を抜けた先には青空が広がっている。あの空を見るとパイロット冥利に尽きます」

よく「パイロットは空に上がってしまうと何もやることがなくなるのでは」と言われるが、それは大きな誤解。操縦自体はオートパイロットに任せても、状況に応じてコースを決めたり考えたりするのは人間の役目。パイロットは常に風向きや天候などの情報を収集し、的確なルートをさがしているという。

「機長総飛行時間2万1,456時間」という記録を残し、井上氏がパイロットを引退したのは2013年。「今、夢があるとしたら趣味のゴルフでハンディ5以下になること」と話す井上氏。それでも、「70近くなった今でもやはり飛んでみたいと思うことはあります」。 「空はいつでもきれい。できればプロペラ機で北海道から沖縄まで、ゆっくり飛んでみたいですね」

講師紹介

井上 博(いのうえ ひろし)
井上 博(いのうえ ひろし)
元ANAキャプテン
長崎県佐世保市生まれ。1968年全日本空輸㈱に自社養成パイロット訓練生として入社。1976年「YS-11」機長に昇格し「機長人生」開始。1981年「B-727」機長に移行。1986年にボーイング747機長となる。その傍ら、教官機長として多くの後輩パイロットを育成。1992年には、国土交通省の承認を受けて自社のパイロットの審査を行なう査察機長を務めた。2007年に機長としての無事故フライト15,000時間を達成し、2013年に総飛行時間2万1,456時間で退職。キャプテンとして自身を鍛え、後輩たちを鍛え・育てたすべての経験知を、業界の枠を飛び越えて伝えている。
著書「『機長!』飛行2万1456時間 きたえた翼に乗って」(廣済堂新書)