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イベントレポート

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2016年6月9日(木)19:00~21:00

荻野 弘之(おぎの ひろゆき) / 上智大学文学部哲学科教授

現代人にとって「幸福」とは何か? ―哲学と諸科学からの考察―

時代がどんなに変わろうと「幸福に生きる」ことは、一人ひとりにとって、心のどこかで忘れることのできない切実な問題だ。日常の様々な悩みや苦労も、結局はここに帰着する。これは、昔から文学者や宗教家が関わってきたテーマだが、最近では経済学や心理学の分野からも「幸福度」や「生き甲斐」を問題にする動きが出てきている。このセミナーでは、安直な人生論ではなく、こうした近年の学問動向をふまえ、西洋哲学の知見を交え論理的に掘下げながら、〈「幸福」とは何なのか〉という古くて新しい問題にどのように接近したらよいのかについてお話しいただいた。

「幸福」とは何なのか

講師の荻野弘之教授は上智大学文学部で教鞭をとる哲学研究者。今回のセミナーではアリストテレスの翻訳など長らく西洋古代哲学を専門としてきた荻野教授に、哲学的見地から人間にとって大切な「幸福」というものについて考察していただいた。
そもそも「幸福」とは何なのか。人はアリストテレスの昔から、それを追求してきた。だが、ひとくちに幸福といっても、人によってさまざまな形がある。社会調査などでよく目にする「あなたは幸福ですか」といった質問。荻野教授はこのありふれた質問には「ある種の違和感がある」という。

「あなたは幸福ですか、という質問は、〈幸福〉を無定義概念として使っているんですね。社会調査としてはそれでかまわないかもしれませんが、そこには〈幸福とは何か〉といった問題が含まれていないんです」

では、「幸福」とは何なのか。世の中の人は、たとえば経済的に豊かになることが幸福であると見なした場合は資産運用などの「実現の手段を追求する」。一方で、宗教者や文学者に多く見られるようにそれを価値観の問題とした場合は「幸福観の変更を迫る」ことで解決を図る。あるいは思想史や倫理の教科書を持ち出して「幸福の哲学」を語るといった方法もあるし、心理学やアダム・スミス的な経済学、民族学などの面から幸福を数値化する試みもある。さらに、ブータンのように経済的には貧しくても「幸福な国造り」を政策としている国もある。

「このように〈幸福〉という問題は、それ自体いろんな問題を含んでいるんですね」

幸福について哲学者が書いた本もまた多い。古くはローマ・ストア哲学の代表であるセネカの『道徳論集』から始まり、19世紀から20世紀にかけてはショーペンハウアーやヒルティ、アラン、ラッセル、日本では三谷隆正などがそれぞれの「幸福論」を説いた。しかし、現代のアカデミズムの世界では意外にも「幸福論」はあまり取り上げられていないという。

「なぜかと言えば、幸福とはああも言えるしこうも言える。厳密なことが言えないので論証などに馴染まない。そのせいかプロの研究者はあまりやりたがらないんです」
もうひとつの理由がカント哲学。近代哲学において重きをなすカントは「幸福という概念を道徳哲学の基礎に据えることに徹底して反対した人」。その影響もあって「プロの間では流行らなかった」という。

幸福とは最高の善

「幸福とは何か」を哲学的に考えるとき、まず注目したいのは「言葉」だ。「幸福」という日本語は「幸」と「福」の二文字からなっている。「幸」とは海の幸、山の幸、と言うように狩りの獲物。これは、普通は自力で獲得するものだ。対して「福」は「神仏からのお下がり」。そうやって考えると「幸福」とは「自力といただくものという両方の面を持った微妙な言葉」であると考えられる。これがギリシアでは「eudaimonia(エウダイモニア)」。この言葉には「人は単独で生きているのではなく守護天使のようなものがついている」といった意味が込められている。「へんな考え方みたいだけど、私は、これはけっこういけているんじゃないかと思います」と荻野教授。

「我々は必ず誰かと一緒にいる。妻や夫がちゃんとしているか、会社に自分を引っ張りあげてくれる先輩や上司がいるかどうか。幸福にはそうしたまわりの人がかなり重要な要素になるのではないでしょうか」

「幸福は最高の善」と言ったのはアリストテレス。人は何かの目的を達成するためには必ず何かをする。そして、その何かの目的はさらに上位の目的につながっている。その究極の目的が「幸福」であるという考え方だ。だが最高善である「幸福」はひとつではない。

「大別すると3つ。大衆にとってはお金や快楽、人生が楽しいということが幸福です。王侯貴族だって結局は快楽に走るので大衆がそう思うのは無理からぬこと、とアリストテレスも言っています」

これが政治家や軍人などになると求めるものは「徳」。そしてごく少数の人は実利よりも「知恵」を得ることを幸福と見なす。むろんそこには、健康や容姿や家柄、財産、名誉、友人といった「外的な善」も関わってくるし、個人の力を超えた他者からの愛情や、事故や災害などの偶運、また人によっては信仰といったものも「幸福の完成」には必要であったりもする。

さまざまな面から構成される「幸福」

もっとも大事なポイントとなるのは「幸福の構造の問題」。アリストテレスは幸福を語るとき、「eudaimonein(幸福に暮らす、1人称)」と「eudaimonizen(誰かを幸福だと見なす、3人称)」という二つの言葉を使い分けたという。前者は「幸福かどうかは自分自身で決める」という自足的、主観的な見方(一人称特権)。ただし、幸福というものは本人も気付かないところに隠れている場合があるし、他者から見てどう見えるかという問題もある。後者の言葉は、それを補完してくれるものだ。また、アリストテレスは「幸福」を「能動的=人間が持っている機能を存分に発揮させること」であると解釈したことでも知られている。それがヘレニズム時代のストア派やエピクロス派、懐疑主義派になると「幸福とは感情に煩わされないこと」と「受動的」に考えるようになる。一見すると正反対な見方のようだが、「幸福にはこの両面がある」というのが荻野教授の考えだ。

最後に「幸福とは自力か他力か」。アリストテレスは『二コマコス倫理学』の中で幸福とは「祝福」であると言っている。人は人を祝福するとき「おめでとう」と声をかける。「同じおめでとうでも合格おめでとうなら自力だけど、誕生日おめでとうや新年おめでとうだと個人の力量を超えたところにあります」そうやって考えると、幸福には自力も他力もあるということになる。問題は、今後テクノロジーの進歩によって起きるであろう「自力範囲の拡大」。選択肢が増えるのはいいことのようで、逆に言えば「あきらめなきゃいけないことも増える」。そうなったとき、我々はどんな価値観を持って生きるべきか。

「いずれ人間はそういうことを考え直してみる必要に迫られるでしょうね」

日々多忙な荻野教授。現在の「夢」は「幸福」の問題も盛り込んだ新著を出すことだという。
「2、3年以内には出したいと思います」

講師紹介

荻野 弘之(おぎの ひろゆき)
荻野 弘之(おぎの ひろゆき)
上智大学文学部哲学科教授
1957年東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒業、同大学院博士課程中退。東京大学教養学部助手、東京女子大学助教授を経て、99年より現職。西洋古代・中世哲学専攻。著書に『哲学の饗宴』『哲学の原風景』(NHK出版)、『精神の城塞』(岩波書店)、『西洋哲学の起源』(放送大学教育振興会)などがある。