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イベントレポート

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2016年6月21日(火)19:00~21:00

高橋 睦郎、フランソワ・ビゼ /  

対談「文楽=BUNRAKUの魅力-人形の身体と叫び-」

今日では「文楽」と呼ばれている人形浄瑠璃は、一度観たり聞いたら病みつきになってしまう不思議な世界です。そんな文楽の見巧者・聞き巧者であるだけでなく、浄瑠璃の自作もある高橋睦郎氏。フランスから日本に来て文楽と運命的に出会い、義太夫まで稽古してしまったフランソワ・ビゼ氏。日本文化の内と外から、この謎めいた芸能について両者が語り合います。からだの奥からしぼりだす声と、生命を吹き込まれるバラバラの人形......。新鮮な切り口で、目と耳が開かれる一夜をd-laboで体験していただいた。

発見に満ちているビゼ氏の文楽論

今回のテーマは日本の伝統芸能である文楽。講師にd-laboでは2回目の登壇となる詩人の高橋睦郎氏、『文楽の日本―人形の身体と叫び(原題『TÔZAI!』)』の著者であるフランソワ・ビゼ氏とその翻訳者の秋山伸子氏をお招きし、対談形式で文楽の魅力について語っていただいた。
3年前にフランスで出版された『文楽の日本―人形の身体と叫び』の日本語訳が、みすず書房から刊行されたのはこの春のこと。贈呈された本を読み始めた高橋氏は「おもしろくてやめられなかった」という。

「なぜそんなにおもしろかったかと言えば、自分たちの日本が海外の人の目にどう見えるのか、それを知りたいというひりひりとした欲望があるからなんですね」

その源にあるのは、在りし日の三島由紀夫氏が高橋氏に語った「極東の島国である日本にはオリジナルなものは何もないんだ」という言葉。しかし、日本には外から取り入れたものを磨きあげ、オリジナリティーに匹敵するものに育てあげる力がある。日本人であれば、その点に誇りを持ちたい。これは「日本人なら少なからず持っている心情」だ。
能狂言、歌舞伎と並んでユネスコの世界遺産に登録されている文楽。しかし、一般の日本人にとって文楽は「能狂言と歌舞伎の狭間にあってもうひとつよくわからないもの」でもある。そこに「折よく登場したのがビゼさんの本」だったという。

「日本人の場合は、よくわからなくてもいつの間にかその中に入っていく。しかしフランス人のビゼさんの場合はそうはいかないんです」

フランス人のビゼ氏が母国フランスの人々にもわかるように論理的に文楽を紹介した『文楽の日本―人形の身体と叫び』は、日本人にとっても文楽を観るうえで新たな視点を与えてくれるものだ。その内容は、日頃文楽を見なれている高橋氏にも「そうだったのか」という発見に満ちているという。

ヨーロッパの演劇にはない文楽の特徴

文楽を鑑賞するだけに留まらず、女義太夫の竹本越孝氏から義太夫語りも習っているというビゼ氏。まず語ってくれたのは、西洋演劇とは違う文楽の魅力。つい先日も、文楽鑑賞がはじめてというフランス人の友人と国立劇場に『絵本太功記』を観に行なったという。武智光秀の三日天下を描いたこの作品では、戦いの様子は直接舞台上で描かれることはなく、外からやって来た使者によって伝えられる。この観客の目に見えない情報を使者が運んでくるというのは劇作家ラシーヌなどのフランス古典劇とも共通する「美学的方法」だ。が、『絵本太功記』では使者が死んでしまい、以後は戦の音だけが伝わってくる。戦略的決断を迫られた光秀は自ら下手の木に登り、状況を観察しようとする。舞台ではその瞬間、背景の布が切って落とされ海が現われる。海上は、迫り来る敵の軍船で溢れている。ビゼ氏にはこの「驚くべき舞台拡張」に隣にいる友人が「度肝を抜かれた」のがわかったという。登場人物の一人の主観的目線が一瞬にして観客のものに置き換えられる。これはヨーロッパの演劇にはないものだ。

このように特徴的な文楽の舞台の中で、もっともほかの演劇と違う点は、人形及び3人の人形遣いと、太夫、三味線が分かれているところ。文楽の舞台では、俳優である人形の声は人形から発されることはなく、舞台に対して斜めに位置している出語り床にいる太夫から「ミサイルのように投げ出される」。そしてその声は人形に「命を吹き込む」。だが観客の目には常に人形を操つる3人の人形遣いも映っている。それは「芝居の幻影を生み出そうとする西洋演劇の対極にあるもの」だ。

「西洋では主題である俳優なしにでは何ひとつ考えられません。これに対して文楽の人形は主体を裏返したものなのです」

「融合」によって生まれた「分断」された舞台

セミナーの後半は、高橋氏がビゼ氏に質問し、それにビゼ氏が答えるという形で進行。ここでもビゼ氏は文楽の「分断された舞台」について言及した。「声はあちらに、筋や運びはこちらに」という外国人にとっては「物珍しく」映る文楽の舞台は、たいていの西洋人の場合、「それ(=分断というイメージ)を指摘するだけで満足してしまう」という。ロラン・バルトもまた文楽の舞台については「声は脇に追いやられている」と書いている。しかし、とビゼ氏は言う。

「文楽は16世紀末、浄瑠璃と人形遣いとの出会いによって生まれたものです。つまり文楽は〈分断〉ではなく〈融合〉によって生じたものなのです」

注目すべきは「浄瑠璃と人形遣いの融合のあともその距離が保たれつづけている」点。
むしろ文楽の舞台では「両者の間の距離を最大限に見せて楽しんでいるふうにも受け取れる」。

「これは西洋的な幻想に基づく文化しか知らなかった私にとって、大きな爽快感を与えてくれるものでした」

そしてもうひとつ、文楽の特徴と言えるのがその「儀式性」だ。「『万葉集』の挽歌から始まり、日本には戦争で敗死した死者を弔う死者芸能の太い流れがあります」と高橋氏。

「それが江戸時代になると近松門左衛門が心中物を舞台に上げ、人形浄瑠璃を死者文芸の流れにつなげました。これが以後の文楽を死の匂いの強いものにしていったのではないでしょうか」

この問いにビゼ氏も「文楽には葬儀の様相が色濃く見られる」と回答。奈良時代初期に九州で起きた隼人の反乱では、朝廷軍は人形遣いをおとりに反乱軍の目を引きつけ、その立て籠る城を落とした。乱後、帝は芝居や舞踊によって戦いを再現し、死者の魂を鎮めようとしたという。こうした儀式は文楽が生まれるはるか昔から日本にあったものだ。

『文楽の日本―人形の身体と叫び』の原題である『TÔZAI!』は、言うまでもなく文楽や歌舞伎の「東西声」からとったもの。同時にこのタイトルには「東洋と西洋の違いを自由に行き来する可能性」を込めているという。

「私が竹本先生に義太夫を習っていることがまさにその証拠です(ビゼ氏)」

「ビゼさんは義太夫の稽古をすることで日本がより一層深く見えるようになられたのではないでしょうか(高橋氏)」

2時間に渡る文楽談義は「ぜひこの本を読んで、文楽を見てください」という講師の言葉で終了した。

講師紹介

高橋 睦郎、フランソワ・ビゼ
高橋 睦郎、フランソワ・ビゼ
 
高橋 睦郎(たかはし むつお)
詩人
1937年北九州市八幡生まれ。詩集に『兎の庭』(高見順賞)、『旅の絵』(現代詩花椿賞)、『永遠まで』(現代詩人賞)、評論に『詩心二千年――スサノヲから3.11へ』など。日本語詩歌のあらゆる可能性を試み、小説、能、狂言、浄瑠璃、オペラなど多分野で実作。

フランソワ・ビゼ
批評家・東京大学教養学部准教授
1963年生まれ。東京大学教養学部准教授。2004年に来日、文楽と出会う。劇場に通うだけでなく、女義太夫の竹本越孝に習って自身でも体験している。著書に『交換なき伝達―ジャン・ジュネの批評を行なうジョルジュ・バタイユ』、『文楽の日本―人形の身体と叫び』などがある。