スルガ銀行 Dバンク支店

SURUGA d-labo. Bring your dream to reality. Draw my dream.

イベントレポート

イベントレポートTOP

2016年7月13日(水)19:00~21:00

丸山 龍也(まるやま りゅうや) / プロサッカー選手

才能のない自分がプロサッカー選手に!自分の夢を叶えるということ

才能もない、経歴もない、実績もない。何もない自分でも、絶対に叶えたかった「プロサッカー選手になる」という夢。夢を叶えるために、すべてを捧げると決めた15歳の春。全日制の高校へは進学せず、社会人チームでプレーしながら、海外への渡航資金を貯めるためアルバイトをする日々。プロへの道で、様々な困難や逆境、試練に道を阻まれながらも、諦めずに目標へ邁進し、世界各地を渡り歩いた22歳。そして遠く離れたスリランカで、夢のプロサッカー選手へ。丸山氏は、どんなメンタル、目標設定で自分だけの夢を叶えたのだろうか。そのエッセンスを、熱く、そして愉快にお話しいただいた。

「日本代表になってワールドカップに出る!」

プロサッカー選手としてこれまでスリランカやリトアニアといった海外の国々でプレーしてきた丸山龍也氏。サッカー選手というと、一般の人間が想像するのは日本代表になるような華やかなJリーガーたち。しかし、その陰には「いつか日本代表に」と夢見て努力をつづけている選手が大勢いる。丸山氏もそのひとり。この日のセミナーでは「たいした選手ではないけれど、人と違うことをやってサッカー選手になった」という丸山氏に、その歩んできた道と、夢を叶えるために大切な「目標設定」について語っていただいた。

1992年生まれの丸山氏は現在24歳。サッカーとの出会いは「保育園の年長さんのとき」。親に買ってもらった『コロコロコミック』に載っていた川口能活が主人公のマンガを読んで「自分もサッカーやりたい」と思った。小学校に入ると、遊び仲間がサッカーを始めたので自分も少年サッカーチームへ。最初は習い事といった感じだったが、小学2年のときに「やる気スイッチが入った」という。

「ちょうどそのときにシドニーオリンピックがあって日本は準々決勝で中田英寿がPKをはずして負けるんです。8歳の僕は悔しくて泣いて、そのときから俺は必ず日本代表になってワールドカップに出るぞと決めたんです」

翌年はコンフェデレーションズカップの日本とフランスの決勝を観戦。さらに、次の年には日本でワールドカップが開催。夢はどんどん膨らんでいった。

「でも実際の僕は選手としてはたいしたことがない。住んでいた横浜市の市選抜はもちろん、区選抜ですら落とされていました」

中学ではサッカー部に入部。気心知れた仲間とプレーするのは楽しかったが、プロを目指すのであればクラブチームやJリーグの下部組織のチームに入らなければならない。そこで部活のほかにもクラブチームで活動。中3になってからは「ぐれたふりをして部は退部」。夏休みにはチームメイトたちとブラジルで1ヶ月を過ごし本場のサッカーを体験した。

定時制高校に通いながらプロを目指す

進路は悩んだ末に定時制高校に進学。「もう一回ブラジルに行って三浦カズや中澤みたいになるんだ」とサッカーの練習に明け暮れた。クラブチームの仲間は皆年上。「夢を持って頑張っているバンドマンのサッカー版」のような選手たちのなかに、「ぽつんとひとりだけ16歳の自分がいました」。

「普通、この歳でプロを目指すならサッカーの強い高校に行くかユースに行くかのどちらか。僕のように定時制高校に行きながらプロを目指している人間はたぶん日本にひとりだったと思います」

試合の相手は社会人チームが中心。「同年代と比べて自分がいけてるのかいけていないのか」がわからなかった。外を見れば自分と同じ歳の「プラチナ世代」と呼ばれる宇佐美貴史や柴崎岳といった選手たちの活躍が新聞を賑わせている。当時は「俺、このままで大丈夫かな」と思う日々だった。

サッカーに集中するべく高校は通信制に編入。高校3年時にはベトナムに渡ってベトナムリーグに挑戦。落ちはしたものの初めてのプロへの挑戦は「いい経験になった」。卒業後は「日本全国トライアウトの旅」。JリーグやJFLのチームには合格しなかったが、地域リーグの『アンソメット岩手・八幡平』と契約。「家つきごはんつき」で「サッカーだけやっていればいい生活」を送ることとなる。しかし、やっと手に入れたチャンスは「天皇杯の県予選の決勝で一発退場」という結果に終わってしまう。

その後は試練の日々。再び目を海外に転じて欧米に行くことを目標にするも、試合中の接触で靭帯を断裂。復帰後もすぐにまた同じ怪我を繰り返し、一度はサッカーを辞めることを考える。精神的に追い詰められ、最後は「鹿児島で空き家になっていた曾祖父の家で山ごもり」をしたという。

「でもやっぱりサッカーがやりたい。気合いを入れ直して横浜に戻りました」

スリランカで念願のプロ選手に。大事なのは「目標設定」

2年間のブランクをはねのけて、今度はタイでトライアウト。力不足で合格は叶わなかったが、自分と同じように海外でプロを目指す選手たちや元Jリーガーたちとの交流のなかで技術を向上させ、「自分もちゃんとやったら海外でプロになれるのでは」という手応えをつかむ。東南アジアでもレベルの高いタイの一部リーグで活躍すればJリーグへの移籍も夢ではない。そのためにはプロとしての実績がほしい。そこで選んだのがスリランカチャンピオンズリーグだった。

スリランカでは『ニューヤングスFC』と契約。ここで初めて「給料の出る」プロとしての生活を送ることになる。翌シーズンはリトアニアの『FKタウラス・タウラゲ』でプレー。昨年12月に帰国後は東京に新設されたばかりの『FCレックレス』に所属。現在は、次の海外でのプレーを念頭に試合や練習に取り組んでいる。

セミナー後半は「これからのこと」。丸山氏が折々に綴ってきたノートを見ながらお話いただいた。「人に見せるのは恥ずかしい」と言いながらも丸山氏が見せてくれたそれには、将来日本代表になるための「短期」「中期」「長期」などの目標が記されている。2012年の7月に書いたのは「2018年6月のこと」。このとき開催されるワールドカップで日本代表になるには、時間を逆算してそのときどきに何をすればいいか、ノートにはそれが綿密にイメージされて書かれている。

「僕のような選手がワールドカップに出るには勢いとノリが必要。1年切っている段階でJリーグでパッと活躍して監督に気に入られてそのまま本大会に滑り込み、みたいな感じしかないと思うんです」

突き詰めていくと大事なのは日々の努力。「今日のこの地味なスクワットがワールドカップにつながっている。それがわかっているだけでも頑張れるし、毎日清々しく生きることができます」

夢は、たとえ達成できなくても大きければ大きいほど「遠くに行くことができる」。挫折があっても目標はそのたび修正していけばいい。そして「常にそれを意識すること」が大切だという。

丸山氏の「夢」は「自分がこうしたいと思ったことが実現できる人」になること。

「いつか40歳、50歳になったときにはそういう人間になっていたい、そのためにも今はサッカーを頑張りつづけていきます」

講師紹介

丸山 龍也(まるやま りゅうや)
丸山 龍也(まるやま りゅうや)
プロサッカー選手
1992年7月4日生まれ、横浜市出身。プロサッカー選手になる!という目標を掲げ、ブラジル、ベトナム、タイなどを経て南アジア・スリランカでプロに。その後はヨーロッパのトップでプレーすることへ目標を上方修正し、昨年はバルト三国、リトアニアでプレー。日本代表の宇佐美選手、柴崎選手、武藤選手ら“プラチナ世代”と同年代。