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イベントレポート

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2016年7月14日(木)19:00~21:00

加藤 博(かとう ひろし) / 一橋大学教授

近代アレクサンドリアの復興

長いエジプトの歴史にあって、アレクサンドリアは特別に光り輝いている。もっとも、現在のアレクサンドリアは、19世紀の近代に建設された新しい都会である。そこはさまざまな民族や宗教・宗派集団が集う場であり、ヨーロッパのエジプトへの玄関口であり、植民支配の橋頭保であった。その歴史はアレクサンドリアという都会、エジプトという国家を越えて、近代という時代が抱えている光と影を色濃く映し出している。このセミナーでは、アレクサンドリアという特異な都会を題材に、我々が生きる近代という時代を考える機会なった。

荒廃の後に復興した近代アレクサンドリア

27回目となった「アレクサンドリア図書館シリーズ」。今回は、一橋大学名誉教授の加藤博氏をお迎えして、エジプト史、地中海史の中でも「非常に特異な都市」だというアレクサンドリアについて語っていただいた。

アレクサンドリアが位置するのは地中海に面したエジプト北部。その歴史は古く、建設されたのは紀元前332年に遡る。アレクサンドロス大王によって造られた町は、ローマ・ヘレニズム時代を通して東地中海の文化の中心として輝かしい光を放ってきた。ローマ・ヘレニズム時代は7世紀に終わるが、その後のイスラム時代も経済都市として存続。地中海経済圏の中心地として繁栄しつづけた。

そこに大きな変化をもたらしたのが1517年のオスマン帝国によるエジプトの支配だった。

「オスマン帝国は多くの知識人や職人、芸術家といった人たちをエジプトから強制的に自国に連れ去りました。その結果、アレクサンドリアは衰退し、18世紀末にナポレオン率いるフランス軍が遠征してきたときには人口8000人程度のおちぶれた漁村のような町になっていたといいます」

ナポレオンの遠征は、エジプトにとっては「近代」の幕開け。日本で言えばペリー来航にあたる出来事だった。フランスは、いったんはエジプトを統治下に置くが結局は後退。エジプトには、オスマン軍の軍人であったムハンマド・アリーが王朝を立てる。明治政府と同じ富国強兵、殖産興業策で近代化をはかったムハンマド・アリー王朝によってアレクサンドリアは復興。当初はヨーロッパへの窓口として、その後のイギリス支配下での植民地時代にはヨーロッパ人の居住する租界地として急激に発展していくこととなる。それを裏づけるのが人口の推移。1820年代には1万2528人だった人口が1846年には16万4359人に、そして1897年には31万9766人に増加している。わずか20年で15万人も人口が増えるというのは驚きだ。当時の地図を見ても、荒廃していたヘレニズム時代の都市空間が復元され、近代都市が形成されていったことが読みとれる。加藤氏がとくに都市として魅力を感じているのは復興されて間もない19世紀前半のアレクサンドリア。この頃からアレクサンドリアにはイギリス人やフランス人、ギリシア人などのほか、マルタ人、イオニア人、トスカーナ人、サルディーニャ人、ナポリ人などさまざまな人々が住んでいた。貿易相手もトルコを筆頭にハプスブルグ家のオーストリアやイギリス、トスカーナ、フランス、マルタなど多様多彩でさまざまな物品を輸出入していた。

「地中海都市」から「ヨーロッパ都市」へ

ここで注目したいのは、「トスカーナ人」や「ナポリ人」といった名称。

「この時代は国民国家が形成されつつあった時代。トスカーナは、現在イタリアの一部ですが、この頃はまだひとつの国家としてはまとまっていなかったんですね」

民族の集合体である国民国家に比べ、この時代の人々は言語や人種よりも宗教に対して帰属意識を持っていた。そして、さまざまな外国人が暮らすアレクサンドリアという都市はそうした人々の多様性を許容する寛容な都市であった。それはあたかもヘレニズム時代のアレクサンドリアが甦ったようなものだったのかもしれない。

しかし、その時代は長くはつづかない。エジプトの版図拡大を嫌ったヨーロッパ列強によりムハンマド・アリー王朝は不平等条約を結ばされ、エジプトが中心となっていた東地中海経済圏はヨーロッパに従属する形となる。また国家の近代化とともに推進したヨーロッパへの蒸気船ルートの開設やアレクサンドリア‐カイロ間、カイロ‐スエズ間の鉄道敷設、そして地中海とインド洋を結ぶスエズ運河の開通工事などで財政破綻に陥ったエジプトはその国家財政をヨーロッパに握られることとなる。1860年代のアレクサンドリアの輸出入の統計を見ると輸出はイギリスとフランスが9割、輸入もまたイギリスとフランスだけで半分を占めている。1830年代との違いはその中身。かつては多様な商品をやりとりしていたアレクサンドリアはヨーロッパ支配下においては輸出は綿花などの原料が中心、輸入はその原料から作られた製品ばかり、といった従属的な貿易を強いられることになってしまう。

「近代アレクサンドリアを見ると、1830年代までは地中海都市でしたが、60年代以降を見るとヨーロッパ都市に見えます」

「地中海人」としての矜持を持っていた詩人・カヴァフィス

いったいどちらが本当の「近代アレクサンドリア」なのか。そのせめぎあいは経済だけでなく文学を見てもうかがえる。「ヨーロッパ都市」としてのアレクサンドリアを描いたのはE.M.フォースターやロレンス・ダレルといった作家たち。ロレンス・ダレルはその作品『アレキサンドリア四重奏』においてアレクサンドリアをアラブやイスラム、アジアに対する最前線と位置づけた。これに対し、アレクサンドリアをコスモポリタン的な「地中海都市」として見なしたのが詩人のカヴァフィス。ギリシア人であるカヴァフィスはその生涯の大半をアレクサンドリアで過ごし、「多様な人々を許容するコスモポリタンな社会」を夢見つづけた。もっとも有名な詩は1904年に発表された『野蛮人を待つ』。その世界観は世紀末的でペシミスティックなものだが、加藤氏は「カヴァフィスの詩を読むと心が落ち着く」という。『野蛮人を待つ』には、この時代、カヴァフィスのようにアレクサンドリアに住むギリシア人が直面していた精神的な危機状況が表出している。前世紀に誕生した民族主義による国民国家のギリシアに対し、カヴァフィスのようなギリシア正教徒系の人々は自分たちをどこに位置づけたらいいかという「アイデンティティクライシス」に陥った。作中でカヴァフィスが「野蛮人」と呼んでいるのは「民族を盾にとって政治を行なうヨーロッパ的な民族主義者たち」を指す。それは「多様な社会を許容するコスモポリタンな社会」とは相反するものだ。

「カヴァフィスにとっての到達点はヘレニズム時代のギリシアの輝き。それが地中海人としての矜持だったのではないでしょうか」

加藤氏の「夢」は「若い頃に師事した尊敬する先生たちに追いつくよう努力すること」。

「カヴァフィスが描いた地中海都市としてのアレクサンドロスのように多様で寛容であれば、つまらない人間でも大きくなれる。私も多様な方々と接して、そういった世界や物の考え方を勉強していきたいなと思います」

講師紹介

加藤 博(かとう ひろし)
加藤 博(かとう ひろし)
一橋大学教授
1948年生まれ。中東史学者。専攻は中東社会経済史、イスラム社会論。一橋大学特任教授、日本中東学会会長、歴史学研究会編集長などを務めた。1980年流沙海西奨学会賞受賞、1985年日本オリエント学会奨励賞受賞、1993年アジア経済研究所発展途上国研究奨励賞受賞、2012年、 国際社会で顕著な活動を行ない世界で『日本』の発信に貢献したとして、内閣府から「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に選ばれる。