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イベントレポート

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2016年9月6日(火) 19:00~21:00

村治 笙子(むらじ しょうこ) / 古代オリエント博物館自由学校・朝日カルチャー 講師

アレクサンドロス大王に神託をさずけた神殿を訪ねて

アレクサンドロス大王が開いた都では、後継者プトレマイオスの一族がギリシア・スタイルの文化を花開かせた。内陸とは気候も人種も異なるが、彼らはそれまでの行政の中心地であった首都メンフィスの主神プタハの聖獣アピスと自分たちの神を習合させ、「セラピス神」という新しい神を祀った。大王は王朝をひらくにあたって、現在エジプト西部砂漠北西部リビアとの国境付近に位置するシーワ・オアシスでエジプト王たちが信仰していた力あるアメン神にお伺いをたてたといわれている。エジプト地中海沿岸地域は、昔ブドウの積出港があり、今もヨーロッパや国内から避暑にやってくる人たちが多いところである。今回は、古代エジプト学を専門に研究されている村治氏をお招きし、シーワのアメン神殿やアレクサンドリアのセラピス神殿、そして再建されたアレクサンドリア図書館についてお話しいただいた。

コスモポリタン的な思想を持っていたアレクサンドロス大王

d-laboでは恒例の「アレクサンドリア図書館シリーズ」。第28回目となる今回は、古代エジプトの神殿や王墓に数多く残されている壁画やヒエログリフの研究を専門としている村治笙子氏を講師にお招きし、アレクサンドロス大王が訪れたというシーワのアメン神殿や、エジプトの神とギリシア文化の融合から生まれたセラピス神について語っていただいた。
「普段の私はアレクサンドロス大王の時代よりもっと昔、紀元前1000年より前の時代のエジプトを専門としているのですが、今日はアレクサンドリアがテーマということで、マケドニアやギリシアなど別の地域の話なども含めて楽しいお話ができればと考えています」
そう話す村治氏とエジプトの出会いは子供の頃。とくに高校生のときに日本で開催された「ツタンカーメン展」には魅了されたという。父親がもともとギリシア哲学の研究者だったこともあり、家の中はいつもソクラテスやプラトン、アリストテレスなどの関連書が山積みの状態。なかには古代エジプトのヒエログリフ辞書もあった。娘である村治氏が地中海世界に興味を抱くのは自然なことだった。
古代エジプトにアレクサンドリアを開いたアレクサンドロス3世(大王)が生まれたのは今から約2400年前の紀元前356年。マケドニア国王の王子として生まれたアレクサンドロスは、父であるフィリッポス2世の後を継いで王位に就くとギリシア全土を統一して東方へと遠征した。その途上では強国だったペルシャを滅ぼし、ついにはインドにまで侵攻した。そのためか「アレクサンドロス大王というと戦争ばかりしていた人」というイメージが強いが、その行動や思想をよく見てみると必ずしもそうではないことがわかってくる。
「実際のアレクサンドロスは、ギリシア文化好きの父や家庭教師のアリストテレスに教育を受けて育ったお坊ちゃん。トロイ戦争が描かれたホメロスの『イーリアス』が愛読書で、コスモポリタン的な思想を持った人でした」
古代ギリシア人の特徴のひとつはギリシア人とそれ以外の地域の人間を分けて考えていた点。これはアリストテレスでさえもそうだったという。しかしアレクサンドロス大王は遠征先の人々に対しては、自らもペルシャ国王の娘と結婚するなど融合策をとった。エジプトを統治するにあたっても、どうすればエジプトの人々に受け入れてもらえるかを真剣に考えた。
「そこで彼が行なったのが、エジプトの神々から神託を授かるということでした」

アメン神の神託を求めてシーワ・オアシスへ

当時ペルシャの支配下にあったエジプトをアレクサンドロス大王が征服したのは紀元前322年。祀る神が違うこともあってペルシャの支配に反発していたエジプトの人々は同じ多神教であるマケドニア軍を「すんなりと受け入れた」。だがアレクサンドロス大王はそれだけでは足りずに、歴代のファラオ(王)たちが信仰していた大神アメンの神託を受けようと考える。
「アメン神(ミン神)とは豊穣の神でありエジプトの主神。歴代のファラオたちはこのアメン神に捧げものを渡して国の繁栄や国民の幸せを祈っていたといいます」
そこでアレクサンドロス大王はシーワ・オアシスにあるアメン神殿へと神託を授かりに出かけた。シーワ・オアシスの場所は現在のリビア国境近く。交通が発達した現代でもアレクサンドリアから車で8時間という遠方にある。村治氏が訪ねたときも砂漠地帯の中をタクシーでひたすら走りつづけることになったという。エジプトを地図で見ると人口が集中しているのは東部のナイル川流域と、とりわけカイロやアレクサンドリアがあるデルタ地帯に集中している。これは古代から変わらず、アレクサンドロス大王がやってきた頃も、行政の中心地はナイル川流域とデルタ地帯の境のメンフィスにあった。ナイル川の水に恵まれた豊かな土地は作物に恵まれ、ローマ時代も「ローマの穀物倉」と呼ばれるほどだった。一方、その他の地域で居住可能なのは水の湧くあるオアシスだけ。シーワ・オアシスはそのうちのひとつだ。
「オアシスというと、私たちの耳には心地良く響きますね。でも行ってみると実は苛酷。湖は塩湖だし、神殿も塩が噴き出ていて半ば崩壊しています」

ルクソール神殿に残る大王のカルトゥーシュ

古代エジプトにおける壁画というのはほとんどの場合、神々と王との間で交わされた儀式が描かれている。そしてファラオの名は、カルトゥーシュと呼ばれるヒエログリフで表わされている。ところが厳しい環境下にあるアメン神殿には、かつてはあったはずの壁画もヒエログリフも風化してしまい、わずかしか残っていない。神殿自体にはアレクサンドロス大王がここを訪れたという証拠はみつけにくい。では、アレクサンドロス大王がほかのファラオたちのように神託を受けた記録がないのだろうか。実は遠く離れたナイル川流域のルクソール神殿にそれが残っているという。
「ルクソール神殿の奥の間には、アレクサンドロス大王がアメン神に捧げものを渡している壁画とカルトゥーシュが残っています。おそらくは同じようなものがシーワ・オアシスのアメン神殿にもあったはずです」
神託を受けたアレクサンドロス大王は、ナイル川河口の西側にアレクサンドリアの町を造る。その後継者であるプトレマイオス朝は、エジプトの人々に信仰されていたプタハ神の化身である聖牛アピスを人の姿をしたギリシア風のセラピス神に習合させ、それを国家神として神殿であるセラペウムに祀った。以後、ローマの支配を受けるにあたってもエジプトは皇帝直轄領として特別な扱いを受けた。
「プトレマイオス朝の時代、セラペウムはあちこちにありました。アレクサンドリアのセラペウムにはアレクサンドリア図書館の分館もあったようです」
ナイル川のデルタ地帯は豊穣の地ゆえに度々氾濫にも遭ってきた。そのため内陸のルクソールなどと違い遺跡の発掘がそれほどは進んでいないという。今後の調査に期待したいところだ。初めてエジプトに行ったのは40歳のとき。以来、エジプト渡航は30回以上という村治氏。「エジプトの語り部さん」と言われている本人の「夢」は「エジプトのことを伝えていくこと」だ。
「うちにはエジプトで買ってきたものが山とあります。これを使ってみなさんとエジプト気分を味わえたらいいなと思います」

講師紹介

村治 笙子(むらじ しょうこ)
村治 笙子(むらじ しょうこ)
古代オリエント博物館自由学校・朝日カルチャー 講師
1947年東京都生まれ。東洋大学西洋史学科卒業。古代エジプトの神殿や墓の壁画やミイラの棺や副葬品のヒエログリフなどを研究。ギリシア哲学の研究者だった父親の影響で地中海世界に興味をもち、自宅にあったヒエログリフの辞書がきっかけとなってエジプトを学ぶ。現在は古代オリエント博物館自由学校、朝日カルチャー講師、国内のエジプト展関連の講演や図録の執筆などを行なう。
著書に、岩波新書『古代エジプト人の世界』、河出書房新書『図説 エジプトの死者の書』、山川出版社『ナイルに生きる人びと』などがある。
日本オリエント学会、西アジア考古学会、世界遺産アカデミー、日本旅行作家協会などに所属する。