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イベントレポート

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2016年12月2日(金)19:00~21:00

阿部 嘉昭、杉本 真維子、樋口 良澄 /  

詩はいま、どこにあるか-鮎川信夫と最果タヒー

詩というと中原中也や宮沢賢治、あるいは現代の谷川俊太郎を思い出す人も多いだろう。 そうした文学としての詩から、歌の詞、短歌、俳句まで含めると、詩は私たちの身近にたくさんある。
このセミナーでは、私たちをとりまく言葉の状況、その中で世界を深くみつめようとする詩人の表現を読み解きながら、私たちの生きている時代について考えた。具体的には、二人の対照的な詩人を入口にして、 今年書かれた詩を読み、いまの言葉のありかを探った。
一人は、今年没後30年を迎えて回顧展が行なわれるなど、大きな話題となった鮎川信夫----彼は戦後の詩をリードし、「歌う詩から考える詩へ」ということを提唱した----と、もう一人は詩や小説、そしてネット上での発信と、 もっとも現代的な女性詩人・最果タヒ----今年出た詩集『夜空はいつも最高密度の青色だ』が若者たちに熱く支持されている----だ。
新しい詩をとおして、いまという時代を三人と一緒に考える機会となった。

鮎川信夫と最果タヒの共通点

鮎川信夫といえば詩壇における「戦後のトップバッター兼四番バッター」。そして現在もっとも「商業的にいきのいい」詩の書き手として「文学的なアイドル」となりつつある最果タヒ。このセミナーでは、評論家・詩作者としても活動している阿部嘉昭氏と、やはり詩作者である杉本真維子氏、それに元『現代詩手帖』編集長であり、関東学院大学で客員教授を務めている樋口良澄氏を講師に、鮎川信夫と最果タヒという数十年の時を置いて活動する二人の詩人を窓口として「今の詩」について考えてみた。参加者には資料として鮎川信夫、最果タヒのほかに、阿部氏と杉本氏の作品を含んだ13編からなるアンソロジーを配布。現代詩の世界に 触れてもらった。

今回とりあげた鮎川信夫の『死んだ男』は戦争で亡くなった友人を描いた作品。

「鮎川信夫は1920年生まれ。戦後、それまでの詩が情緒や感覚に流されていたためにナショナリズムや戦争に十分向き合っていなかったことに気付いて、詩においても批評ということを考えなくてはいけない、と提唱した人です」(樋口氏)『死んだ男』で鮎川は友人を思いながら、そこに「遺言執行人」を登場させることで「友人はただ亡くなったのではなく、その遺志は実現させられるのだと言っています」。

「たったひとりの友人を描くことで戦争を描く。それが鮎川の方法でした」最果タヒの作品は『花園』。改行が少なく、一見すると散文体に見える詩に書かれているのは「生きていることの痛い感覚」だ。「最果さんは30歳の女性。この『花園』を読むと、たぶん今の中学高校くらいの女性はこんな気持ちで生きているんだろうな、というのが伝わってきます」鮎川信夫と最果タヒ。描いているものはまったく違うが、「自分には何もないのだけれど、そこから世界に向き合おうとしている」という部分では「共通点がある」という。

詩に必要な「恥ずかしさ」

読むべき作品の多い現代詩。問題があるとすれば「読まれていない」ことだ。

「なにしろ詩集というのは売れない。普通は100部か200部、多くて400部。こんなものはとてもじゃないけど仕事にできません。僕も詩を書いていますが、自ら詩人と名乗るのは恥ずかしいですね」(阿部氏)

売れない詩を書くことは一種の「恥ずかしさ」をともなう。では、そこから離れて実際に書き手が詩を書くときはどうなのだろうか。

「恥ずかしさを克服して一編の詩編というものを仕上げることができるかというと、やっぱり難しい。書き上げた詩に恥ずかしさが滲み出るんです」と阿部氏は語る。

この「恥ずかしさ」は優れた詩の書き手であれば大小の違いはあれ誰もが抱えているものだ。そして「詩を書いて読者を愛するにはこの恥ずかしさは必要なもの」でもあるという。逆にそれがない書き手の詩は「傍若無人で厚顔無恥。つきあう必要はありません」。

「鮎川信夫も最果さんも詩のなかで、死んだ友人を代弁する、若い女の子を代弁する、と同時に詩を書いている自分を自分が代弁している。なぜかというとそこに恥ずかしさがあるからです。ストレートに自分を出すことができないからそういう迂回経路を作るのだし、詩編自体もそれによって短くなって伝わりやすくなることが多いんですね」

 杉本氏もまた「恥ずかしさと詩は切り離せないものだと思います」という。杉本氏が詩を書きはじめた理由のひとつは「他者とのコミュニケーションが非常に苦手な自分」。人間が他者とコミュニケーションをとる際にもっとも多用されるのは言うまでもなく言葉だ。つまり言葉とは「自分から離れて外へ、他者の世界へと向かっていくもの」である。

「そうやって離れていく言葉の動きに抵抗して、一時でも捕まえて懸命に自分のものにしようとしていた痕跡が見えること、それが詩の条件のひとつだと思うんです」(杉本氏)

 自身を振り返ると、杉本氏には「コミュニケーション以外で言葉を使いたい」という思いが強くあったという。そう話す杉本氏の詩は、本人いわく「コミュニケーションに絶望した人間が書いた詩」だ。 ただし人間には「相手の表情を読む」や「話の間を読む」といった言外にあるものを読みとる能力がある。これは見方によれば詩を読むこととも似ている。ゆえに「コミュニケーションに絶望した人間が書いた詩」で あっても、伝わる人にはしっかりと伝わる。阿部氏もそのひとりだ。

「杉本さんの詩は言葉の運びに独特なものがあって、そのため初見では凶暴に感じるんだけど、読んでいくうちにどんどん優しい響きに変わっていくんですよね」(阿部氏)

優れた詩の条件とは「作者がその言葉にどれだけ滞在したか」

阿部氏に評された杉本氏も阿部氏の作品に言及。優れた詩の条件として「詩作時間だけでなく背後の時間をも含んだ、言葉に対する滞在時間の長さ。それが一行から感じられること」を挙げた杉本氏。 その意味では、今回アンソロジーに収録された阿部氏の『石のくずれ』は、わずか9行の詩ながら「滞在時間の長さ」を感じさせてくれるものだという。

「この詩には石という物を形から見る視線がある。これは実は私も大事にしていることです。物は、これは○○だと名前から入るとそこから先は考えなくなってしまうけれど、形から入れば認識までの間にさまざまな発見があるはず。作者がその言葉にどれだけ滞在したかが読み手にとっても真摯に向き合える要素になると思えるんです」

樋口氏が注目したのはジェフリー・アングルス氏の『ミシガンの冬』。日本語が母語ではない詩作者が紡いだ詩には「これまでの日本語の表現の文脈にないもの」がある。それは「日本語を豊かにしていくもの」でもある。

セミナー中は、ほか他にもいくつかの詩を紹介。講師同士で意見を戦わせる場面も見られた。同じ詩でも自分なりの見方で読む。それこそが詩を読むことの楽しさなのかもしれない。 ラストは講師3人の「今後の夢」。

「『プレイボーイ』誌のインタビューで同じ質問をされたジャン・ジュネの言葉を引用させてください。〈忘れ去られること〉、これですね(阿部氏)」(阿部氏)

「外国語をマスターして日本語が通じない世界に行って、そこで日本語の詩を書きたいですね(杉本氏)」(杉本氏)

「ぼーっとして、1年くらい好きな本だけ読んで過ごしてみたいです(樋口氏)」(樋口氏)
 

講師紹介

阿部 嘉昭、杉本 真維子、樋口 良澄
 
阿部 嘉昭(あべ かしょう)
評論家、詩作者、北海道大学文学研究科准教授。専門は映画・サブカルチャー研究、詩歌論。1958年、東京生まれ。鎌倉で育ち、『北野武vsビートたけし』で評論家デビュー、著書多数。詩集に、『昨日知った、あらゆる声で』『ふる雪のむこう』『空気断章』『陰であるみどり』『束』『石のくずれ』など、詩論集に『換喩詩学』『詩と減喩』。
杉本 真維子(すぎもと まいこ)
詩人。1973年長野県生まれ。本名同じ。学習院大学文学部哲学科卒業。2002年に第40回現代詩手帖賞受賞。詩集に『点火期』、『袖口の動物』(第58回H氏賞、第13回信毎選賞)、『裾花』(2015年度第45回高見順賞)。エッセイ、批評なども多数執筆。
樋口良澄(すぎもと まいこ)
関東学院大学国際文化学部客員教授。1955年東京都生まれ。「現代詩手帖」、「文藝」などの雑誌の編集にたずさわり、1980年代以降の日本文学の先端に関る。岩波書店編集部を経て文学、演劇、メディア等をめぐる批評活動を展開。主な著書に『木浦通信』(吉増剛造との共著)、『唐十郎論』、『鮎川信夫、橋上の詩学』。