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2015 Mar.11
Be Unique! ~オンリーワンであること~ Vol.10

サーフ界の第一人者・ドジ井坂の人生。
“サーファー”がいるのは日本だけ。もっとサーフィンの敷居を低くしたい

ライブでは、ジャンルや音だけに囚われず、個性を表現したい

『Be Unique!』では、「オンリーワン」な人・企業を訪問。その価値と魅力に迫ります。なぜオンリーワンなのか、どうやってオンリーワンな存在になりえたのか…。そこにはきっと、ほかにはない「夢」や「ストーリー」があるはずです。

今回お会いしたのは、日本のサーフィン黎明期からプロとして活躍してきた、ドジ井坂こと井坂啓己(ひろみ)さん。サーフボードさえ入手困難だった60年代、中学生だった井坂さんは、どのようにしてはじめたのでしょうか? 自らを“海おやじ”と称し、サーフィンの枠を飛び越えて活躍している井坂さんの、オリジナリティあふれる活動にもズームイン。サーフィン、海、そして湘南の魅力とともに、お届けします。

アメリカに憧れた中学生時代
女の子の「カッコイイ」に押され、ボードを自作


1966年、茅ヶ崎にて。身長の2倍近くある、木製のボードとともに。
「バスケットやアメリカンフットボールもやったけれど、サーフィンは一人でできる。
そばには、音楽がある。そこが魅力でした」と井坂さん。

1969年に、全日本サーフィン選手権で優勝。翌年、オーストラリアの世界選手権に日本人として初出場し、76年には全日本プロサーフィン選手権の初代チャンピオンに。そんなサーフ界のレジェンド・井坂さんがサーフィンをはじめたのは、60年代初頭のこと。当時、日本でも、ザ・ビーチ・ボーイズ、ザ・ベンチャーズなどのサーフミュージックが流行していたといいます。

「あの頃は、日本全体がアメリカ文化を追っていた時代。ぼくも、アメリカに憧れていました。自宅のある神奈川県茅ヶ崎市から銀座まで出かけ、洋画を観て、帰りに洋書店でアメリカの本をパラパラめくってから帰る。それが、休日の楽しみでしたね。英語を覚えたくて、電車でアメリカ人の女の子をナンパしたことも(笑)。

中学2年生の頃は、週末の昼間に、友だちと女の子を集めてチークダンスパーティを開いていました。家の雨戸を閉めて、昼間から(笑)。そうしたら女の子が、『サーフィンってカッコイイよね』っていったんです」

しかし、大卒者の初任給が1万円代だった当時、サーフボードの価格は7~8万円。海が身近な茅ヶ崎でも、サーフィンをしているのはごく一部の人たちのみだったといいます。

「ボードは、洋書店でつくり方が載っている本をみつけて、自作しました。自分で翻訳して、木で枠を組んで骨を入れ、両面にベニヤ板をつけて…。僕、手先が器用で、それ以降もボードは自作したものばかり。ボードメーカーをやっていたことも、あるんですよ。教えてくれる人もいなかったけど、ボードの構造も乗り方も、自分で論理的に考えていくのが好きだったんです」

メディア、プロ大会、海のコミュニティづくり…
多様な活動のベースにあるのは、“10年後の理想”

ドジ井坂こと井坂啓己(ひろみ)さん

井坂さんのサーファー人生が本格的に動き出したのは、全日本サーフィン選手権で優勝した1969年、22歳のときのこと。以降、選手・指導者・ボードメーカーをはじめ、さまざまな活動を行なうことに。70年代に入ると、雑誌やラジオ、テレビなどに頻繁に登場。専門誌『サーフィンワールド』では、編集長としての業務も。「プロは一般の人々に支えられてこそ、プロ」との信念のもと、サーフィンの知名度向上に尽力します。

その甲斐あって、80年代には、日本にもサーフィンブームが到来。1980年に競技を引退した井坂さんは、日本で初開催となる世界選手権をプロデュースし、プロの世界を盛り上げることに奔走します。そのほか、ウィンドサーフィンや、当時は広く知られていなかった、スノーボードの普及にも貢献。

さらに90年代には、幅広い人々に海の遊びを体験してもらうためのコミュニティ「ビーチクラブ」を、各地に設立。2000年に入ると、万人に応用できる身体のバランス理論「フィジカルセンストレーニング」の確立に着手。2011年の東日本大震災以降は、海との共存を考える学問をつくろうと、「海岸学」を開始しています。

およそ10年ごとに、さまざまな取り組みをスタートしてきた、井坂さん。なぜ、こんなにも多岐に渡る活動を行なうのかを尋ねると…。

「将来、理想のライフスタイルを送るためには、10年前から仕掛けていかないと。例えば、『ビーチクラブ』の活動をしていれば、海岸に、夏以外でも多様な遊びができるコミュニティが築かれる。そうやってサーフィン以外のことまで熟知した後輩を生み出さないと、10年後の自分が、海で自由に遊ばせてもらえないじゃない(笑)。

それに技術・身体能力を学ぶ面でいえば、サーフィンだけじゃ足りない。ハワイの連中と遊んでいると、彼らは、朝と夕方は波に乗って、昼はビーチバレー、来週はカヌーをやって…という風に過ごしている。色々なスポーツをやっている人たちに、サーフィンで得るアイディアだけじゃ勝てないんです。

僕の性格として、自分が『これだ!』と思ったら、まわりが見えなくなるくらい、勝手なことをやっている…というのもありますね(笑)。まずはやってみて、動きながら考える。思うようにいかないこともあるけど、続けていくことで、必ず変化は訪れます」

海の遊び方を知り、気軽にサーフィンに挑戦して欲しい
その思いが、「ビーチクラブ」の活動に

浜辺に並ぶサーフボード シーカヤックの様子
「ビーチクラブ」活動が行なわれているのは、神奈川県の茅ヶ崎・平塚・江ノ島など、全国13カ所。
ボランティアが先導に立ち、サーフィン・シーカヤック・スポーツカイト・ウィンドサーフィンなど、
幅広いスポーツの体験ができる仕組み。

現在、井坂さんが力を入れているのは、「ビーチクラブ」「フィジカルセンストレーニング」「海岸学」の3つ。このうち「ビーチクラブ」は、自然のエネルギーのなかで遊ぶためのノウハウを伝承していく、海辺のコミュニティ活動。対象者は、子どもからシニアまで。実施は各所月1回、登録・予約不要、料金も基本的に無料で行なわれているとか。スポーツ以外にも、海岸の砂を利用した砂像や、巨大しゃぼん玉をつくることも。あえてサーファーだけでなく、幅広い層を対象に活動を行なう理由は、どこにあるのでしょうか?

「海水浴って、数ヶ月の期間でしかない。海が好きな人たちは大勢いるけど、夏以外に個人で海岸に出かけても、なにをしていいのかわからないんです。冬だって、長袖長ズボンのドライスーツを着ていれば海に入れるのに、マリンスポーツをしない人たちは、それも知らない。

そもそも海外には、『サーファーです』って人はいないんです。フィッシング・ダイビング・セーリング…と、たくさん行なう遊びのうちのひとつだから、“サーファー”という意識がない。そういう状況を見てきたから、海が好きな人たちをサーフィンという枠に押し込めずに、巻き込んでいきたいと考えました。

現状、サーフィンって、サーフショップに行かなければできないでしょ?憧れのスポーツではあるけれど、敷居が高い。お金がかかるから、ファミリーでなんて楽しめないですよね。『ビーチクラブ』でのサーフィン体験では、簡易なボードを使います。そういうボードって商売にならないからショップは売りたがらないけど、本当はどんなスポーツも、コア層だけでなくその周囲まで取り込んでいかなきゃ広がらないんですよね」

筋肉痛になるのは間違い!
自然の力を利用すれば、サーフィンは誰でも楽しめる

バランスキューブを使ったトレーニングの様子
ボードの下にあるのは、体幹とバランス能力を鍛えるための器具「バランスキューブ」。
オリジナルの器具を用い、理論立ったトレーニングを行なうのが、井坂流。

「ビーチクラブ」や井坂さんのスクールでは、子どもから70代まで、サーフィンを楽しんでいるといいます。もちろん、初心者からスタートする人も多数。体力勝負に思えるスポーツですが、井坂さんによれば、サーフィンに筋力は必要ないとか…。

「『フィジカルセンストレーニング』は、筋力に頼らず骨で支えて、立つ・歩く際のバランスをとることが主軸。それをマスターすれば、シニアでも波に乗れちゃう。

だって、魚もオットセイも、波間をすり抜けて、波に立ち向かっていないでしょう? みんな、波の力の上手な利用法に気づいていないんです。パドリング(沖に向かう際、ボードに腹ばいになり、両手で水をかいて進むこと)で筋肉痛になるのも、間違ったやり方。方法を変えれば、疲れずにパドリングができるんですよ。

なによりサーフィンの面白さは、自分の力ではなく、波の力を利用して遊べること。フランスの思想家・ジル・ドゥルーズもいっていましたが、自分の筋力で陸上を動き回ったり重いものを持ち上げるのは、20世紀までのスポーツ。これからは、自然のエネルギーの真っただ中に入り込める力が問われてくる時代なんだと思います」

茅ヶ崎の砂浜は、約5メートルも高さが変動する
「海岸学」を通し、海をもっと知って欲しい

ソファに腰掛ける井坂さん

井坂さんが事務所を構えているのは、自身が生まれ育った、茅ヶ崎。インタビューを行なったのは、茅ヶ崎からほど近い、湘南d-laboです。インタビューのラスト、長くこの場所に住み、各地の海も見てきた井坂さんだからこそ、知り得ることを教えてもらいました。

「日本で南向きに開けた海岸は、湘南・遠州灘・土佐湾の3カ所だけ。南向きだと、海側から日光が降り注ぐので、海面にキラキラ反射して見えますよ。のほほんムードが漂っているのも、特徴。ただ湘南は、海辺にコンクリートの建造物が増えたために、昔より荒れてしまいました。

『海岸学』では、海が有機的なものであることを実感し、海とのいい付き合い方を考えていければと思っています。実は茅ヶ崎の砂浜は、波で洗われたり復活したりの繰り返しで、5mほど高さが変わるんです。そういった変化や、季節と訪問者の関係、ゴミの増え方、天気や周囲の地形との関係などを観察し、全国の海岸をデータにしていきたい。

震災のときに、地元の人でさえ、海のことを充分に知らないと気づいたんです。海岸に防波堤をつくる動きもありますが、島国である日本が、コンクリートで固められた海辺ばかりになってしまって本当にいいのか…ということも、提起していきたいですね」

湘南ひらつかビーチパーク
1990年、平塚市につくられた、未来型ビーチ「湘南ひらつかビーチパーク」。
平塚の「ビーチクラブ」は、ここで開催されている。

また、行政とタッグを組み、湘南ではこんな取り組みも行なっているとか。

「最近の湘南には、朝、海に入ってから仕事に行く…というライフスタイルを実現したくて、移り住んできた人たちが増えました。以前は大きな別荘があった土地を、複数の区画にわけて購入して…。そういう人たちは、玄関の近くにシャワーをつけたがる。でも本当は、海岸にパブリックな設備があればいいはず。

それで、平塚に『湘南ひらつかビーチパーク』という施設をつくったんです。ここは1年中、無料でシャワーを利用できるし、ビーチバレー・ビーチサッカー・ビーチフットボールなどのコートも常設されている。平塚の『ビーチクラブ』は、そこで開催されています。

今は、神奈川の海をPRするための『かながわシープロジェクト』という活動に参加していて。働きかけたいのは、若い頃に加山雄三や石原裕次郎に触れて、海に憧れたシニア層。彼らがいずれ、子どもたちに海のことを教えてあげられる人材になってくれれば…と構想しています」

そう話しながら、「僕は、たまたま茅ヶ崎に生まれて、今も茅ヶ崎を拠点にしているだけ。どこの海もいいところがあるし、一番好きな海はどこかなんて、かんたんには答えられない」と笑う井坂さん。また、「海での活動は、仕事というよりライフワークかな」とのコメントも。さまざまな活動に取り組み、結果を生み出してこられたのは、サーフィンのみならず、海と海を訪れるすべての人々への愛情、そして理想があるからこそといえそうです。

撮影:蟹由香(室内の画像のみ。そのほかは、井坂さん提供)

Information

ドジ井坂(井坂啓己)氏

1948年神奈川県茅ケ崎市生まれ。1969年、メキシコでの世界選手権がキャンセルされ、翌年のオーストラリア開催になったことを知らずに、現地に向かってしまったことが、通称 “ドジ”の由来。現在、一般社団法人 ビーチクラブ全国ネットワーク理事長、独自の理論に基づいた「ドジイサカbeachschool」主宰などを務め、マリンスポーツ・ビーチカルチャーの振興に貢献中。

井坂さんの著書サイン
サーフィンや海の関連著書を多数持つ、井坂さん。
取材時に、サーファー必携のロングセラー教本『ドジ井坂のサーフィン・スクール』(マリン企画)にサインをいただきました。この著書は、d-laboミッドタウンで閲覧できます。
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